武田の城−諏訪原城の歴史−
諏訪原城は、天正元(1573)年武田勝頼が家臣の馬場美濃守氏勝に命じて築いた城で、武田家の守護神の諏訪明神を奉って諏訪原城と名付けました(諏訪原城あるいは諏訪の原城と呼ばた)。
勝頼は天正二(1574)年に高天神城を攻略し三河進出を果たしましたが、翌天正三年五月には織田徳川軍の鉄砲隊により甲斐へ逃れ猿ことになります。そして家康が三河から遠江へと進出して6,7,8月と諏訪原城を攻撃しました。このとき甲斐からの援軍もなく将士は吉田城へと逃げ去り、8月24日に城は家康の手に落ちました。
家康は諏訪原城を牧野城と改名し、城主に松平周防守康親を置きました。その後武田軍は諏訪原城奪還をめざして徳川軍と交戦しましたが敗退し、天正十(1583)年三月、勝頼が天目山で自決して武田は滅びました。やがて牧野城の役割もなくなり、廃城となって天正十八年に取り壊されました。
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