T E A B R E A K |
第3話 『手揉み時代の技術革新』 |
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今回は、手揉み技術の話をしましょう。
明治5年に米国が茶輸入税を廃止して後、茶価が高騰して茶園の開拓や製茶技術の開発が活発になりました。昔からお茶といえば京都の宇治が本家で、現在では生産高全国一の静岡県でも、当時はまだ製茶技術の師を宇治から招いていたようです。この明治初期に、静岡県式の製茶法として伝えられる「ころがし」という手揉み技術を、榛原郡の田村宇之吉氏が考案しました。この「ころがし」技術考案には、おもしろい裏話が伝えられています。
田村宇之吉氏
『榛原郡茶業史』よりころがしの発明
明治8、9年のころ、榛原郡(静岡県)の田村宇之吉氏は、初倉村谷口原で中條景昭ら士族の茶工場に迎えられホイロ頭をしていました。その工場の職人は元士族たち。不馴れな人を使ってのホイロ頭の役目は、さぞたいへんだったことでしょう。
ところがある時、ツヤがある上等なお茶が仕上がり、毎日夕刻にその日仕上がったお茶を試飲していた中條が、下揉みした若い職人を呼んで「どうやって揉んだのだ?」とたずねたそうです。呼ばれた若い職人は、悪いことをしていたので怒られるものと思い、なかなか口に出して説明することができずにモゴモゴしていました。中條景昭は士族開墾の長でしたから、若い元士族の職人には、よっぽど恐かったのでしょう。見かねた田村氏が、そっと影へ連れていって、揉み方を聞いたといいます。その職人は、
「実は、腕が疲れてホイロの上で茶が乾いてしまい、しかたなく水を打ってホイロの上で揉んでしまいました。」と答えたそうです。このハプニングからヒントを得、田村氏は製法の研究をはじめ、後に全県に普及した「ころがし」という手揉み製法を編み出したというわけです。
それまでは、ホイロの上でお茶を揉むということは無く、ホイロの上で乾かして、揉むときは下で揉んでいましたから、品質とともに製茶の能率にも画期的な技術革新だったのです。でんぐりの発明
それから数年後の明治16年には、榛原郡川崎町の橋山倉吉氏が「でんぐり」という製法を考案しています。こちらにも考案秘話が残されています。
橋山氏は田村氏の弟子で、生家もすぐ近所でした。当時の家庭は薪を燃料にしていましたので、榛原の人々は風が吹いた後に海岸端の松林へ行って、焚き付けにする松葉を拾い集めていました。
まだ若い橋山氏が、母と連れ立って松葉拾いに出かけたとき、母が熊手を使ってトントンと振動させ、上手に松葉を揃えるのを目にしました。「これはお茶にも使えるかもしれない。」そう思ったのが、橋山氏の「でんぐり」製法考案のきっかけになったと伝えられています。「ころがし」と「でんぐり」。この2つの製茶技術は静岡製法の基本となり、現在でも手揉み製茶の基本として生き続けています。そして、機械製茶においても「ころがし」は粗揉機、「でんぐり」は精揉機にその技術が反映されているのです。
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