You are here: TOPPAGE 歴史探訪案内 昔ばなし 第1回 夜泣き石 峠の伝説と伝承  

峠の伝説と伝承

夜泣き石の来歴

 小夜の中山といえば、昔から、夜泣き石の伝説で有名である。なぜ、これほど有名になったのか、まず、その来歴をたどってみよう。
 九延寺(きゅうえんじ)にある夜泣き石の説明書きには、滝沢馬琴の『石言遺響(せきごんいきょう)』から抜粋したとして、次のように紹介されている。

 その昔、小夜の中山に住むお石は、夫の帰りが遅かったため、菊川の里に仕事を探しに出掛け、その帰宅の途中、小夜の中山の丸石の所でお腹が痛くなり、松の根元で苦しんでいる所へ轟業右衛門(とどろきごうえもん)が通りかかり、彼女を介抱したとき、懐に金の袋を見つけ、お石を殺して金を奪い取った。
 そのとき、お石は懐妊していたので、傷口より子供が生まれ、お石の魂がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。これを夜泣き石という。
石言遺響
石言遺響
夜啼石の伝説
夜啼石の伝説
 傷口から生まれた子供は音八と名付けられ、九延寺の和尚に飴で育てられ、大和の国の刀研師の弟子となった。
 そこへ轟業右衛門が刀研にきたおり、刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数年前、小夜の中山の丸石の付近で妊婦を切り捨てたときに石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり、名のりをしてめでたく仇打ちをした。その後、弘法大師が九延寺の観世音を点眼し、夜泣き石の伝説を聞き、お石の菩堤の為に丸石に仏名を書いて立ち去ったという。
(滝沢馬琴の伝説「石言遺響」より抜粋)

 この説明書きに書かれている内容は、必ずしも滝沢馬琴の『石言遺響』を正確に写したものではないが、その影響を強く受けていることは確かである。  しかし、夜泣き石の伝説すなわち『石言遺響』というわけではない。というのは、『石言遺響』成立以前にも、夜泣き石に関する話がいくつかあったからである。  そのいくつかをここに挙げてみることとする。


『石言遺響』以前からの伝説

夜啼石  むかし、西坂の里に、女ありけり。かなやの里に、おやありて、行ける。道にて、ぬす人のために、ころされ侍(はべ)り。その女は。はらミて、此月、子うむべきにて、有りけるに、ここの右の方なる山の内に、ある法師の住けるが、あはれがりて、母が腹をさき、子をとりいだして、そだて、その子十五になりける時に、法師かうかうと、物がたりしければ、うちなきて、ほうしにもならず、寺をしのびいでて、池田の宿にゆきて、ある家のつかハれものとなり。
田つくり、柴かりて、月日ををくり、立居ねおきに、常にくちずさびて、命なりけりさよの中山と、いひけるを。あるじ聞て、日ごろへて、後にとひけるハ、つねに、いのちなりけりといふ歌を、口ずさぶハ、いかなるゆえぞといふ。この者うちなきて、我は腹のうちにて、母にわかれ、父も行方なくなりぬといふ。あるじ、おどろきていはく。はらのうちにて、母をおくれたりとハ、いか何事ぞととへば、わが母ハ、それがしの生まれ月にあたりて、人にころされて、むなしくなりけるを。はらをさきてとり出し、そだてられ侍りといふ。あるじのいはく、それは佐夜の中山にての事なり。そのころせしぬす人ハ、となりの家のあるじなり。そのとき、母が身にまとへりし小袖ハ、なになにの色なり。不憫なる事ぞかし。かたきをうちなば、われもちからをそへ侍らんとて、その夜、となりのあるじをうちけり。いのち成りけりといふ歌をとなへて、をやのかたきをうちけり。その子ハ出家して、山にこもり、父母のぼだいをとぶらひ侍り。(中略)佐夜の中山より十町バかりを過て夜啼きの松あり、この松をともして見すれバ。子共の夜なきをとどむるとて。往来の旅人けづり取。きり取けるほどに、其松うゐに枯て、今は根バかりに成けり。此道夜ぶかに出べからず、折々あしき事ありといふ。
(『東海道名所記』)

 この話は、馬琴の『石言遺響』より約百四十年ほど前の万治(まんじ)二年(千九五九年)に書かれたものである。
 ちなみにこの中で、母の仇討ちに成功する主人公が口ずさむ「命なりけりさよの中山」の歌は、西行の「年たけて」の有名な歌のことである。
 ところが、この『東海道名所記』では、赤字部分にあるように、のちの『石言遺響』では「石」としているものが、「松」となっている。さらに、「夜泣き松」と、妊婦殺傷事件とは、別の話のように取り扱われているのがわかる。

小夜中山宵啼碑
小夜中山宵啼碑 曲亭馬琴著 歌川豊廣画

夜泣き石と子育て飴

 子供が飴によって育てられたという話を挙げてみよう。

 小夜の中山近くに住む飴屋の主人の所に、ある晩をさかいに、毎夜決まった時間に、若い女が水飴をひとつだけ買いに来るようになった。そんなことがいく晩か続いた。その事を不思議に思った主人は、ある晩、飴を買い求めにきた女のあとを気付かれぬようついていくことにした。人気のない峠の大きな丸石のところまで来ると、女は闇に包まれすうっと消えてしまった。
 どこからともなく赤子の泣き声が聞こえる。主人の背中にぞーっと、冷水を浴びせられたように寒気がはしった。気味が悪いと思いながら、あたりを見回すと、どうやら赤子の泣き声は大きな丸石の方から聞こえてくる。勇気を出しその石の近くへ寄ってみると、まわりには水飴の棒が散乱していた。そしてそこには、飴を買いに来る女の着物に包まれた、赤ん坊がいたのである。
 主人は、「この子のために女は、幽霊になってまでも飴を買いにきたのだな」と語ったということである。この地で若い妊婦が殺されて二十日あまりの日が過ぎた夜のことであった。
 この水飴は「子育て飴」という名でこの地の名物になったということである。

 このような「子育て幽霊」の類話は全国各地に見られる。静岡県内でも、湖西市鷲津にある名刹(めいさつ)・本興寺の十七代住職、石から生まれた名僧と名高い日観上人(にっかんしょうにん)の出生譚(しゅっせいたん)もこれに類辞している。興味深いのは、この日観上人が本興寺住職として着任したのは享保六年(千九七二年)のことであり、『煙霞綺談』に「佐夜の中山夜啼き石といひはやらせしは、享保の中此(なかごろ)よりの事なり」とあるから、この日観上人の伝説が夜泣き石の伝説と何らかの関連を持つのではないかと考えられることである。


(社)中部建設協会発行「東海道小夜の中山」より

 

昔ばなしのもくじ 夜泣き石 峠の伝説と伝承  

 

お気軽にご意見ご感想をお寄せください。

お茶街道文化会
主催:カワサキ機工株式会社