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[徳川家康の遠江支配]

■徳川家康の遠江支配

 永禄三年(1560)五月、桶狭間の戦いで今川義元が敗死したことにより、徳川氏自己の将来に一大転換をきたした。徳川家康は今川勢敗北とともに、三河一国の統一事業に積極的にのり出す。翌四年には西三河を平定し、七年までの間に東三河も制覇、三河一国統一を成し遂げた。この間、三河一向一揆での反家康の土豪の抵抗をおしつぶし、追放してその所轄を功臣に再分配して一族・譜代を一層強力に家臣団組織に組み入れ、名実ともに三河支配の戦国大名となる。永禄十年までの三年間は三河統治に専念したが、翌十一年には遠江進攻を開始。家康は遠江伊奈佐郡の井伊谷三人衆と呼ばれた菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時に本領安堵と加増の誓書を与えて遠江に入り、井伊谷、刑部、白須賀、宇津山の諸城を攻略した。そして12月18日に引馬城(浜松城)に入った。こうして永禄十二年にかけてほぼ大井川以西の遠江一円を平定すると、さらに東進政策をおしすすめていくために本拠である三河岡崎城を離れて、元亀元年(1570)6月遠江浜松にその居城を移した。さらに天正九年(1581)3月高天神城を攻略し、遠州を完全に平定した。翌十年3月、武田氏が滅亡するに及んで、織田信長より駿河をあてがわれ、天正十四年には浜松から駿府に本拠を移した。こうして駿・遠・三の三カ国を領有した徳川氏は、天正十年になると甲斐・信濃経略にのり出し、翌年までに甲府盆地・南信濃一体を手中におさめ、五カ国領有時代を迎えた。この広大な領土の支配において、三奉行を任命し、三遠・駿河・甲斐それぞれの国の国務、兵糧、治安維持に務めさせた。統一統治のために家康は、家臣の恣意的な年貢の取り立てを禁じ、新たな支配方式を打ち立てようとしていた。この掟書のうち駿河・遠州地方に出されたものが数多く残っている。このように家康は、関東入国以前、国奉行やその配下にあった有力代官達をその所領に結集し、地方支配体制を強固にしていったということができよう。そしてこのような有力代官の上にあったのが国奉行であり、さらに家康の側近勢力が行政官として擡頭しつつあったのが五カ国領有時代の政治機構の状態であるといえよう。

■松平隠岐守定勝の掛川城入封

 戦国時代の掛川城主は「朝日奈三代」といわれる。すなわち、泰熈、泰能、泰朝である。掛川城が軍事的にクローズアップされるのは泰朝のときである。永禄三年(1560)今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に殺されてから急速に衰退し、永禄十年(1568)、甲斐から武田信玄が駿河に侵攻し、三河から徳川家康が遠江に進攻する事態となった。同年12月27日、家康は掛川城を包囲したが、落城は永禄十二年5月、講和の形での開城となった。
 掛川城を手に入れた家康はこの城を重視し、重臣石川家成を城主に抜擢する。しかし天正十八年(1590)の小田原征伐によって家康は関東に移封され、駿河・遠江には秀吉の家臣が入ってきた。秀吉家臣として掛川城主となったのは山内一豊で、家康との決戦を想定し、大規模な築城を行っている。ところが慶長三年に秀吉が死亡。慶長五年、関ケ原の戦いが起こるや政権交代の流れを予測し、一豊は家康方に傾く。軍事的手柄はなかったものの、接待と情報提供という官僚的手腕が家康から評価され、大名再配置の時に土佐国浦戸(高知)に破格の増封をもって移された。この時、山内一豊に代わって入封したのが松平隠岐守定勝であった。


■家康人事の変化

 天正十八年(1590)8月1日、家康は小田原北条氏滅亡後、旧領五カ国を離れて関東に移った。以後関東幕領の在地支配において活躍したのが、伊奈熊蔵忠次、大久保十兵衛長安、彦坂小形部元正塔の代官頭である。他方、遠江以来の三奉行あるいは国奉行は、すくなくとも慶長五年(1600)の関ケ原の戦いまでは、奉行職として徳川氏の軍事的職制の中心にあった。しかし、慶長八年(1603)の江戸幕府成立にともなって政治組織が整い、軍事的任務を中心とした職制の性格が薄れていくにつれて、彼らは近世的家臣団すなわち大名ないし旗本へと転化していった。幕政機構の中枢部は、従来の奉行衆から本多正信、正純等の家康側近勢力によって占められていくことになる。
 定吉自害は、正に徳川幕府成立の年慶長八年。時代は武勇を尊び軍事面での能力が求められた戦国時代から、政治的手腕をもった統治能力を重んじる時代へと転換期を迎えていたといえる。先に述べたように、定吉自害の理由は不明であるが、この話「遠江塚」に伝えられる家康の言葉は、三河一向一揆鎮圧以降培ってきた統一支配のための行政手腕をうかがわせる。

■戦国時代の武士道精神と自害

 「定吉が自害し、近習のサムライも殉死」この事実は、現代の感覚で定吉の心情や殉死者の立場を語ることはできない。下克上の世、力があれば田舎大名でも天下をとれる時代にあって、侍たちに鎌倉時代以来の武士道が、どのように影響していたのか背景をさぐりたい。
 君の馬前に討死するとか、あくまで忠節を守るとかいう、いわゆる武士道精神は、このころ一部にはあったに違いない。だがこの時代、とくに15〜16世紀をみていると、武士道華やかなりし時代であったとはとうてい考えられない。譎詐(きつさ)、陰謀、追従、背信、不信、簒奪(さんだつ)、威嚇−−当世流の言葉でいえば、出世主義、権威主義、官僚主義、派閥主義、日和見主義といったあらゆる背徳の代表が勢ぞろいしたような時代、主君は臣下を信ぜず、臣下は主君をうかがい、のみならず父子たがいに殺傷し合う、この戦国の乱世は、見方によっては武士道もっとも地に墮ちたときであったといえよう。
 封建的な忠誠の念を基幹とする武士道の観念が喧伝されたのは、これから後、儒教が幕府の御用教学として確立されてからのことである。定吉自害は関ケ原の戦いから3年後のこと。出陣した武将たちは、自分の討死を避けながら、巧みに功労を主張し、小早川秀秋のように内通を約している者までいる激烈な戦いに、定吉は出陣していない。聚鯨和尚の言として伝えられるように、関ケ原の戦いで功をあげる機会がなかったことが、自害に影響していることは想像に難くない。

※参考文献
●『遠江古蹟図絵 全』(有)明文出版社発行
●『戦国大名論集12 徳川氏の研究』 (株)吉川弘文館
●『原田伴彦著作集 第1巻 戦国社会史』 (株)思文閣出版
●『日本の組織図辞典』 新人物往来社
●『掛川城のすべて』 掛川市教育委員会社会教育課発行

 

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