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昔ばなし
遠江塚(とおとうみづか)
昔、遠江の国掛川の里に、松平隠岐守(おきのかみ)定勝という殿様がいました。 この方には、遠江守定吉という若殿がいて、幼いころから武芸に励み、 弓矢をとったら天下一と自慢するほどで、 伯父の徳川家康からは、 「のちのちは、関東の旗頭ともなるべし。」 といわれ、たいへん可愛がられていました。 ある日のこと、家康が京に上る行列が、掛川にやってきました。 定勝はこれを迎え、定吉に 「遠江の国を出るまで、お送り申せ。」 と、言い付けました。定吉は言い付けどおり将軍を守って荒居の渡しにやってきました。 | |
何隻もの船を連ねて海へ出、定吉も家康の船に乗って、しばらく行くと、 空の彼方に一羽の鷺(サギ)が飛んでいるのが見えました。 将軍も供の侍達も、何気なしに眺めていると、 定吉はそばにあった弓を取り、矢をつがえて、 はるか彼方の鷺を狙って弓を射たのです。 居並ぶ人々は拍手を送り、その見事な腕前をほめたたえました。 得意になった定吉が、家康の御前に出ると、おほめにあずかるどころか、 「つまらぬ殺生をするな。飛ぶ鳥も景色のうちじゃ。 たとえ弓矢をとるにしても、万が一射損じたらどうする。 そちは皆の笑い物だ。いたずらに腕をほこるものではないぞ。」 と、お叱りを受けてしまいました。 | |
わずか十九歳の定吉は、掛川のお城に帰ると、あまりのはずかしさに、 その夜のうちに切腹して果ててしまいました。突然の出来事に城中は大騒ぎとなり、 定吉の従者二十数人も、その後を追い切腹して果てました。 父定勝は、家康に内密で場外の西南郷下俣になきがらを移し、 定吉の手習い師匠であった真如寺の和尚さんによって自害した若侍たちと供に葬られました。
その後、ここに五輪の塔が建てられ、遠江塚と呼ばれるようになり、 |
*参考:『掛川の昔話』掛川歴史教室
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