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[八柄鉦についての解説]
■八柄鉦と念仏踊り
八柄の鉦の芸が行なわれていたのは、小夜の中山と菊川の里(榛原郡金谷町菊川)との間の東海道筋であった。この芸は俗化した念仏躍りで、『遠江古蹟図絵』には子供が大小八つの鉦を腰に吊るして、体をグルグル回すと鉦が浮き上がって水平になるので、両手にもった撞木(しゅもく・鉦たたき棒)で念仏を唱えながら打ち鳴らすというものである。北斎の浮世絵「懸川」でもわかるように太鼓で伴奏する人もいる。 『遠江古蹟図絵』には、「ぐるぐる廻る故に目まいして身に毒となり」とあり、川柳にも | ||
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懸川 葛飾北斎 (浜松市美術館蔵) | |
などというくらいだから、大変な苦痛を伴うものであったらしい。見る人がその技術に感心して小銭を投げたほどである。
さて、『遠州無間略縁起(えんしゅうむげんざんりゃくえんぎ)』(無間山観音発行)に、八つの鉦をたたくことは、ハッパ六十四となり、これは日本六十余州の神を拝すること、同時に六十余国の国分寺を参拝するのと同じ効果があるものだとこじつけて、散銭することを勧めている。念仏を唱えながら鉦を叩いてグルグル回るということで念仏踊りといえないこともないが、曲芸・見世物の一種となっていた。 |
■八柄鉦に関する記述『図絵』によると、八柄の鉦の芸が行なわれていた時期について「宝永(1704〜11)年中に初まる由」とある。さらに「十年ばかり以前迄は大名旗本参勤の節往還へ出て物を貰ふ」とあるので、この書が著された享和三年(1803)より十年前、つまり天明年間の終わりか寛政のはじめ頃までは行なわれていたことは確かであり、兵藤庄右衛門自身も「二十年前に余も見たり‥‥」と記している。元禄時代にはドイツのケンベルも見ていることが著書に記されており、『遠淡海地志』にも「八カラ鉦 此所在之」とある。さらに、『俚諺集覧』には「たたき鉦を八ツ腰に帯び、打鳴らすと云う。昔は遠州小夜の中山にこの技をするものある由、古き道中双六の画に出したり」とあるから、ここでは有名な見世物であったらしい。
また『図絵』は、実際には「八柄鉄」というべきを「八柄鉦」というようになった‥‥とも書いている。菊川(金谷町菊川)は、牧之原大地と佐夜中山との間に広がる谷間で、菊川の上流部にあたる。鎌倉室町の頃には間の宿(あいのしゅく)として旅人が宿泊し、その頃矢の根づくりが盛んであった。浮世絵師五雲亭貞秀が描いた『東海道五十三次勝景』のなかの「菊川風景』にも名物として「矢ノ根カヂ」と記されており、また『言継卿記(ときつぐきょうき』にも「菊川とて矢之根打之所也」とある。『言継卿記』は大納言山科言継の日記で、言継が今川氏を頼って下向した弘治二年(1556)九月の条にしるされている。 | 八柄鉦 |
この伝承を秘める八つの鉦と木槌が、今も掛川市佐野新田の神谷家に蔵されている。大小四個づつあり、「八挺鉦由来」をしるした江戸時代の本板刷りも保存されている。
※参考及び転載 ●『遠江古蹟図絵 全』(有)明文出版社 ●『東海道小夜の中山』 (社)中部建設協会 |
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