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[民間信仰と馬頭観音]

■民間信仰と馬

 馬頭観音は密教曼荼羅の上位に位置する六観音のひとつである。宝冠に馬頭をいただき、忿怒の相で三面の頭をもつ観世音菩薩で馬頭明王ともよばれる。魔を馬のような勢いで待ち伏せ、慈悲の最も強いことを表すという。この昔話で建立された馬頭観音は、民間信仰としての馬頭観音がひろまった江戸時代のことと思われる。民間信仰では馬の供養と結びついて信仰されるようになった。
 馬に関わる代表的な民間信仰としては、東北地方の「オシラサマ」があげられる。オシラサマは姫頭、馬首を祀る蚕と農耕の信仰である。また、山梨県では観音様にあげてある馬の沓を借りると蚕があたる、といい、群馬県でも春一番目の蚕を始めるときに、近くの山の祠から馬の沓の片方をもらってきて養蚕室につるしておくと蚕が病気にならないといって馬の沓をカイコの守護としている。各地で養蚕と馬の関係が説かれているのは、中国の『捜神記』あるいは『太古蚕馬記』などと共通点があることから大陸からの伝播と口碑的伝播の両方であろうといわれている。また、農耕については、祀った馬の霊力によって田畑の害虫を追い払うと言い伝えられているところもある。いずれにしても、農耕には牛馬が欠かせない労働力として利用され、人々の暮らしに根づいた家畜であったことから、多くの昔ばなしや伝承に登場し、民間信仰としても広まったのである。
馬頭観世音
馬頭観世音


■街道交通と馬頭観音

 馬の供養=畜生道に堕ちないように祈る、という信仰は、農耕に利用されたことと並んで、馬が活躍した日本の街道の発展と関連があるともいえる。陸上の運送が盛んになった江戸期、馬方という馬を使って荷物を運ぶ人たちが多くいて、馬子、馬追いとも呼ばれた。東海道五十三次の大津駅札の辻付近にあった馬神神社から出す「大津東町上下仕合」と染め抜いた馬の腹掛が、頽馬(ダイバ)除けといって、荷役馬の護符として広く諸国の馬方の信心をあつめていたようだ。東海道の金谷から掛川は、小夜の中山峠、大井川の渡しをひかえて人や荷物が停留する宿場であったことから、旅人とならんで馬子たちが口承伝播に果たした役割は大きかっただろう。 洞善院の馬頭観音
洞善院の馬頭観音
 他にも全国に馬頭観音や馬塚に関する伝承は数多くあるが、静岡県では他に榛原郡白羽村に以下のような伝承が残されている。

村の中央、観音山と呼ばれている小高い丘の上に馬頭観世音の祠がある。昔、この祠は南を向いて遠州灘を見下ろしていたが、その当時には、遠州灘を航海する、馬皮を積んだ運搬船はきっとこの沖合で難船したそうだ。それで村人は話し合い、観音堂を東に向け変えたところ、それからは馬皮を積んだ船も無事に航海を続けることが出来たという。(松井せい)
白羽村の馬頭観音がどのような経緯で祀られるようになったかわからないが、この話に見られるように、馬頭観音は街道筋だけでなく、海の交通においても伝説を残している。仏教上の馬頭観音が、農耕養蚕、交通など、さまざまな当時の常民の暮らしに関わった馬という動物との関係を通じて、暮らしに深く根ざした民間信仰に発展したものが、この馬頭観世音信仰であったといえるようだ。

※参考文献
●『日本昔話事典』 弘文堂
●『仏教大辞典』 望月信亨編
●『静岡県伝説昔話集』 静岡県女子師範学校郷土史研究会編
●『日本俗信辞典』 鈴木栄三著
●『金谷町誌稿』

 

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