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[金谷の禅刹 金龍山洞善院]
■金谷の禅刹 金龍山洞善院
金谷町の中心街から、旧国道1号線を牧之原台地に上っていくと、進行方向左側に見える重厚な伽藍を構えた禅寺が金龍山洞善院である。天正15年(1587)哉翁宋咄(さいおうそうとつ)大和和尚(天龍円鑑禅師)を開山として開かれた、曹洞宗の寺である。昔は寺田十石をもち、十一もの末寺のある寺だった。
室町末期、金谷地方の人々が、地元に寺院がなかったため、焼津の高草山林叟院の哉翁宋咄和尚を招き、禅苑を開いてもらったとのことである。金龍山洞善院の山寺号は、寺域が牧之原中段で水利に恵まれなかったため、金龍が出現して湧き水をもたらし、さらに洞然として善地にいたらしめようとの願いをもとに名号されたといわれている。
開山哉翁宋咄和尚は、今川氏の重臣朝日奈氏の出で、俗名を俊元といった。増善寺(静岡市)の三世僊林恵椿(せんりんえちん)和尚を師として仏門に入る。宋咄和尚は天正17年(1589)に示寂しているので、洞善院在山は短いものであった。しかしこの間洞善院の寺運は大いに隆盛をみた。江戸時代に入って三代将軍家光より寺領として十石の朱印を賜り、この石高は明治維新まで続いた。洞善院二世は大宣祗徹和尚で、医王寺(金谷町)を再興し、以後代を重ね、元禄12年(1699)に旧寺地より300mほど離れた現在の場所に移転している。移転に伴い再建された本堂は、寛政12年(1800)に炎上し、文化2年(1805)年にふたたび再建されている。これが現在の本堂で、建築から180余年の月日が経過している。
本堂正面には「金龍山」と揮毫された大扁額が掲げられている。月舟宗胡禅師の譜での筆によるものである。月舟宗胡禅師は加賀前田家の菩提寺である大乗寺の住職をつとめた禅僧で、曹洞宗門のうちでは能筆家として知られる人物であり、この書額があることは洞善院の風格を大いに高めている。本堂には金谷町出身の画家丸尾月嶂が三年半の歳月を費やして完成させたという「釈迦涅槃図」がある。この仏画は金谷町の文化財に指定されている。
※参考文献 ●『遠州の古寺』 神谷昌志編著 静岡郷土出版社 ●『遠州伝説集』 御手洗清著 |
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