You are here: TOPPAGE 歴史探訪案内 昔ばなし 第14回 若宮大明神 若宮大明神の由来と現在の殿谷集落  

若宮大明神の由来と現在の殿谷集落

この昔ばなしの亡霊はともかくとして、リアリティがあるのは川合宗忠(成信)が実 在の人物であり、「酒に酔って云々」が事実かどうか定かではないが、松葉城落城にと もなう悲話が伝えられた話である。

 

   この話は享和3年編纂の『遠江古蹟図絵』に書かれている。それによると、
 掛川宿より一里北に佐野郡初馬村あり。村の内に若宮大名神とて小宮あり。この来由 を聞くに、永正年中のことなる由。倉真村に居城す川合宗忠の嫡子数馬、ある時伯父の 所に振廻有り、招かれ行きしに、誤りて主人の草履片足はきちがへし事有り。兼ねて伯 父と不和にて有りしことなれば伯父即座に数馬を手討ちにし、道の側に死骸を埋められ ける。この事態穏便に済みけり。
この冒頭にある佐野郡初馬村は、現掛川市初馬である。話はこの地にあった権現にまつ わるものとして始まり、倉真村は現掛川市倉真松葉で、城というのは松葉城のことをさ し、川合宗忠はここに居城する土豪であった。伝えられる永正年間は1504〜1520年で、 永正10年(1513)ごろには朝比奈氏が掛川新城を築いている。室町後期の戦国の世、土 地の土豪たちはたびたび落城の危機にさらされていた。話に出てくる川合数馬の亡霊の 姿は、片目で片足だけ草履を履き…とあり、なんとも凄惨で恨みに満ちた恐ろしい姿で ある。『図絵』に描かれている絵は、なんとも大男の亡霊で、仰天した村人のようすも それらしく描かれている。きっと、このころ村人たちは多くの武将たちの盛衰を見聞き し、侍たちの死骸を見る機会も増えてこのような悲話を伝えたのだろう。  『図絵』を記した兵庄右衛門も
碑には戒名年号もなし。古墳いづれも無銘なり。(中略)場所は山の岸、松の小森有り て宮有り。前に鳥居建ち、宮の後ろに石碑三つ並べて有り。外二つは何者の碑やらん知 れず。中の碑は長高く両脇卑し。苔蒸して至つて古し。
と記録しており、当時(江戸末期)でさえこの話を裏付ける古蹟は残されていなかった ようだ。この碑が川合数馬を葬ったものであるかどうかは、現在に至っては定かでない 。ただ村の鎮守として現存していることと、土地の人々が言い伝え、旧暦9月8日のお 祭りが残されているという事実のみである。(今は10月7日)  若宮大明神は「掛川宿より1里北」とあるように、掛川市街地から北方へ直線距離で 4キロにあたり、今は掛川バイパスが通っていて西郷インターチェンジから車で10分ほ どの殿谷(とんのや)という集落にある。民家の脇にある2mほどの細い路地を入り、 杉の木に囲まれた小さな森の入り口に木の鳥居があるが、通りすぎてしまいそうな小さ な宮である。宮の後ろには古い碑の前に新しい碑が建てられていて、村人であろう誰か が花をそなえてあった。

*参考文献 『遠江古蹟図絵』解説 神谷昌志 (有)明文出版
*画像 上写真 若宮権現
  下地図 掛川バイパスから殿谷集落へ

 

昔ばなしのもくじ 若宮大明神 若宮大明神の由来と現在の殿谷集落  

 

お気軽にご意見ご感想をお寄せください。

お茶街道文化会
主催:カワサキ機工株式会社