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大井川と弘法大師伝説
大師伝説と高野聖 弘法大師、お大師さま、弘法さんとよばれ、庶民から親しまれた空海は日本全国を巡回して歩き、村々の住民のためにさまざまな奇蹟を示したという内容の伝説を各地に残している。実際の弘法大師は33歳で中国から戻り、30年間にわたって高野山を開創し、そこで多くの書物を残したが、全国を巡回する余裕はなかったといわれている。にもかかわらず大師の足跡が各地に残されているのは、大師が亡くなったあとにも蘇って現世の巷を経めぐっているのだという信仰、伝説があるからだ。柳田国男によると、各地の大師伝説は、もともとは大子(オオゴ)伝説で、大子すなわち神の長男を意味したものが、文字を知る人によって大子→大師→弘法大師とされたのではないか、と説いている。伝説が神によるよりも、実在した偉い人の話である方が、リアリティがあり伝えやすかったことから、偉人弘法大師の伝説として伝えられたという。 これら大師巡歴の話には、ほとんど地域差が見られないことから、伝説は聖(ヒジリ)や巡礼の聖地巡拝の全国的流行に伴って伝えられたものとする考えが強い。そこで注目されるのは、弘法大師を祖師と仰ぎ、高野山に本拠を置くと信じられた旅の宗教家の一群「高野聖」の存在である。
彼等はヒジリ方と呼ばれ、ヒジリの語源は日知り、日を知る人で、その面で特殊技能と知識をもった人々である。彼等は高野山での地位は低く、半僧半俗の者も多かったが、諸国を托鉢し無縁死者を供養して歩き、大師の名を口にしながら無知な庶民と接していった。その旅は中世来保証されていて高祖弘法大師の修行と称して全国を自由に往来できたという。高野聖は、ときには「高野聖に宿かすな…」などと庶民から蔑まれもしたが、勧進といって結構のことを語って村人たちから寄進をあおぐ活動をしていた。村の外から訪れて、村人たちに幸運についていろいろと話してくれる彼等の存在は、古くから伝わるマレビト神ともつながり、黙々と村で暮らす人々にとって実に歓迎すべきことだったと推察される。大師信仰がこのように広まったことには、このような聖たちの功績があったとしても、根底では弘法大師の本質にある民衆性によるところが大きいといえる。 |
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弘法大師と水 弘法大師伝説は、どれも似た不思議話だが、中でも数が多いのは、今まで水のなかった土地に、美しくまた豊かな清水を与えていったという話だ。東日本はたいてい弘法井、または弘法池などといい、九州では御大師様水と呼ぶことが多い。『大師御行状集記』などをみれば、とりわけ大師が降雨術に長じた呪者であることが強調されており、池の主竜王をあやつって雨を降らせたことが再三あったと記されている。これが民間信仰に密着するようになると、水を操り清水を湧かせる霊力を駆使するようになる。これらは、高野山における大師=彌勒=救世仏のイメージであり、村びとにとっては待ち望んだ救世主として受け入れられたのだろう。
水に関係する大師伝説を分類すると、次のように分けることができる。 |
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1.水に困る村に、杖を突いて泉を湧かす。 (長野県南佐久郡 他16) |
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この鍵島の伝説は7にあたり、他にも大師と水に関わる話が、静岡県藤枝の原などにも伝えられている。 また、榛原郡荻間村(現榛原町)の話は、 |
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勝間田村三栗で水を断わられた大師が、水呑まで来られて、そこで親切なお婆さんが、わざわざ谷間まで水を汲みにいっておいしい水をもませてくれた。大師は「ここは水が不便な所だ。よい井戸をつくってやろう。」といって一所を掘らせたところ、きれいな清水が湧き、どんなときも涸れることがなかったので、この井戸を弘法井戸と呼んだという。 | ||||||
これとは逆に、周知郡三倉村、小笠郡大坂村では、後段の清水の湧く話はなく、水を与えなかった罰として今も水に苦しむという話である。確かなことはわからないが、水に苦しむ土地の話は、二次的に移住してきた人々の、不自由でも住まなければならないという伝説なのかもしれない。 |
*参考文献 | 『弘法大師信仰』日野西真定編 雄山閣出版(株) |
『ふるさと百話1』静岡新聞社 | |
『思想読本 空海』法蔵館発行 |
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