You are here: TOPPAGE 歴史探訪案内 昔ばなし 第15回 鍵島の水 鍵島はどこか  

鍵島はどこか

図絵に記された「鍵島の水」の冒頭は、「金谷の宿の北に榛原郡五箇村と云ふ有り…」とあり、この五箇村というのは榛原郡金谷町五谷地区のことである。江戸時代には俗に「志戸呂五ヵ村」と呼ばれ、番生寺村、竹下村、牛尾村、横岡新田村、島村の五つをさした。
この話しにある河は、大井川の支流を指しているというだけで、現在どの川にあたるのかはわからない。
大井川は近世人為的に流れを変えており、室町時代の末期まで、大井川の流れは牛尾山(金谷町)と横岡村の丘陵との間を流れ、今の金谷河原町の辺りを通って東南を流れていた。それを天正年間に牛尾山の東側に本流を通す工事を施し、旧河川敷を開発して志戸呂五ヵ村ができた。したがって、この話が伝えられた時代は、天正から『遠江古蹟図絵』の著された享和までの間のことと思われる。 この五ヵ村のうちの島村は、大井川と大代川の間にはさまれ、ちょうど三角形の島状になっていたことから島の名がつけられたようで、島村の小字には西中島、中河原、西島などがあった。『図絵』にある「鍵島」の位置については、明確ではないが、おそらく島村近隣であろう。 島村の辺りは、往時から表流水が少なく、上流の水がいったん河原の砂礫の下に入り、下流にきて再び表面に出るという地質上の特徴があった。この現象について弘法大師伝説を生むところとなったのであろう。
大井川周辺は、大水があれば水害が起き、水が涸れていれば暮らしに不自由する。自然と暮らしやすいところには、古くからの村人が住まわっていたはずで、この鍵島が開拓の地であるとすれば、水に不自由したとしても不思議でない。この話からは、水に不自由し他の村よりも悪条件の地であっても、入植者として暮らさなければならない人々の暮らしぶりが伝わってくる。

 

島村、現在の金谷町島は、国道金谷バイパスにかかる新大井川橋の右岸のすぐ北側で、碑義理地蔵尊の里として知られているところである。江戸初期の寛永年間(1624〜1643)、島村の庄屋であった山田家が、自家の敷地内に自然石の地蔵を祭ったところ霊験あらたかであったことから信仰をあつめ、現在でも日限地蔵尊の里して知られる。

 

 

参考文献 『遠江古蹟図絵』解説 神谷昌志 (有)明文出版

 

昔ばなしのもくじ 鍵島の水 大井川と弘法大師伝説 鍵島はどこか  

 

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