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解説 雄鯨山雌鯨山
現在の国道1号線は、掛川の市街地から東進すると、この八幡神社の前で、Y字形に分岐しており、右に直進しているのが国道1号線、左の家軒の方に入っているのが旧東海道で日坂の家並みに入る。そのY字形分岐点の右側、ちょうど八幡神社と道路をはさんで西側の山が雄鯨山である。今では神社のある森と雄鯨山の間は切り通しになっているが、昔は小高い尾根筋を越えた。その雄鯨山のさらに尾根つづきに標高150〜200メートルの山がある。それが雌鯨山といわれている。
「日坂の宿西の入口の南側に八幡宮ありて…」とある八幡宮は、掛川市日坂にある八幡神社のことである。土地の人たちが日坂八幡宮と呼んでいる歴史の古い神社で、『延喜式神名帳』に「巳等乃麻知神社」と記載されている社(やしろ)が、このお宮にあたるといわれている。「事任神社」と書かれたものもあり、『掛川誌稿』には「式内事任神社なり…」としるされ、兵藤庄衛門も『図絵』の中で「事任神社」と紹介している。
雄鯨山雌鯨山
この「雄鯨山、雌鯨山」の伝承をしるした『雄鯨山雌鯨山由来記写』が『日坂郷土誌稿』に収載されている。日坂郷土誌稿は、日坂の成瀬啓太郎が大正三年(1914)にまとめた地誌で、同書のなかに資料として由来記がのせられているものだが、何時頃誰によって書き写されたものであるのか、付記がないのでわからない。しかし、二つの山に関する数少ない伝承資料だけに興味を覚える。
雄鯨山由来記写『由来記写』はこのあとつづいているが、それによると、使者の鯨が殺されたというので、竜神は非常に怒り、潮垢離(しおごり)のため海岸にやってきた人たちをのみ込み、帰さなくなったという。八幡宮の神事のとき、日坂村の人たちが心身を清めるため海で潮垢離する習わしになっていたのである。そこで八幡宮の神はこれを聞き、西方十二、三町(約1.4キロ)の場所に塩水が湧き出る井戸をつくった…というのである。その潮水が湧いたところが、今の潮井河原で、江戸後期の浮世絵師五雲亭貞秀が描いた『東海道五十三次勝景』のなかにも「八幡宮」「男クジラ山」「女クジラ山」などと共に「シホ井」が記入されており、世間にも広く知られた伝承であることがわかる。そもそも、くじら山は、日坂駅のほとり南にありて宮村といふ。人皇三十七代孝徳帝の御宇とかや。嫁石権現となんいへる宮有り、御姫宮おはしましき。或時、権現、八幡宮を囲碁に誘ひ給ふとき、竜宮より雄くじら雌くじらをして、彼の姫宮を押て貰はんことをいいおくられけり。その時権現、姫をいとおしみ給ふて、北の方なる大沢といへる処に姫を置かせられぬ。されば七日がほど暗夜のごとくなりしとなん。八幡宮碁石をもって、彼の鯨をうち殺し給ふ。そこをくらみ村といふ。是こそ鯨五百間にあまりしと、一念こりて死て巌石となり、今、連理の山これなり。うち付け給う石、頂に残りて今もまま見あたりぬ。(以下略、送り仮名原文のまま)
※『遠江古蹟図絵 全』神谷昌志著参照(明文出版社)
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