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鞍骨の池に関する記述

■鞍骨の池の現在地

 鞍骨の池は、掛川東山口に、半分ほどの大きさに埋められてはいるが、同じ名で残されている。掛川バイパスを市街から東へ進み、千羽インターチェンジを南に下ると逆川地区に出る。300メートル先の左手にある逆川浄水場に隣接した池が鞍骨池である。今では半分ほどに削られ、池岸も整地されてしまって当時の面影はない。すぐ側を工業団地用の都市計画道路が通り、景観は変貌したが、この池の名が残されていることで、いにしえの悲話が語りつがれている。

鞍骨の池の現在地


■鞍骨の池に関する記述

 鞍骨池のある集落は、文化〜文政の著書『掛川誌稿』によると、池下村という村に あたり、この書には「鞍橋(くらほね)池」と記されている。

昔堀越入道ナルモノ、此池塘ニシテ自盡セシ時、其鞍橋ヲ此池塘ニ埋メタルユヘニ名 ツクト云、入道ノ墓ハ池東牛頭村ノ鞍壷坂ニアリ、按ニ此池ヲ築シハイツノ事ニヤ詳 ナラネト、此池ノ北ニアルヲ池下町ナト呼ヘルヲ以テ思エハ、古キ池ト見ユ、又此池 塘モ山間ニヨリテ築シサマナレハ、恐クハ倉間ヲ鞍馬ト書ケル類ニシテ、倉ノ字ヲ負 ヒテ山間ニヨレル地名ニヤ、鞍橋ヲ埋メシト云ハ、恐クハ附會ノ説ナルヘシ、

 この記述にある鞍壷坂は、逆川の小字、池の東側にあたる牛頭村(ごうず)に残る坂の名で、この壷は矢壷をさすものとの説がある。その牛頭の丘腹に堀越入道の墓が残されているが、『掛川誌稿』に
古ヘハ五輪塔ナリシカ、イツカ石地蔵ヲ造リテ古色ヲ失ヒキ、

とあり、当時は五輪塔で奉られたのが、時代を経て変えられてしまったことが伺われ る。昭和20年代の記述にはその地蔵に「享化五年」の刻印があると記されている。

 また、石川依平『柳園雑記』に、池下村の竹島金安(善右エ門)の話であるとして、

昔敗軍の将一人、馬に乗りて迯来りたるを、池下村に追手の武士追付て討取り、其首 も何も池の中へ打入れたりとぞ、それより鞍骨池とは名つけたるよしいひ傅へたり、 さて其討たれたる将は誰なるらんしらねど、牛頭村に堀越様と稱する墓跡あり、その 将の遺跡なりといひ傅へたり。

とあり、この自刃の昔話とは少し異なって伝えられている。


■堀越入道について

 この堀越入道は、陸奥守貞延という武将で、『今川系圖』には、貞世の子治部少輔 貞相其子治部少輔範時其子陸奥守貞延とあり、享徳五年貞延佐野(さや)の中山に於 て、横地勝田の爲に討れ、共に戦死するもの數人あり−−とある。また、『宗長手記 』には、浪人蜂起して、小夜の山口にして陸奥守堀越不慮の打死數輩、雖然所々に合 戦味方理運云々。同様の記述としては、『今川家譜』に、遠江の浪人横地勝間田蜂起 し、小夜の山口にて合戦ありける時、一族堀越陸奥守討死す−−とある。

 これら討死の場所とされている「山口」という地名について岩田氏は、小夜の中山 の入り口を意味する言葉かもしれないが、『海道記』に「山口といふ今宿」という記 述が見られ、当時ここを山口と呼んでいたのだろうと記している。

 今川氏は範国の時代に足利尊氏に従って勢力をあげ三河から進出、遠江駿河の地に基礎を構えている。この戦は享徳5年、今川範忠を当主とするころのこと。享徳の乱が1454年に勃発。足利、上杉らの勢力争いが続いていた。未だ遠江の領土支配が確立されていない時代の戦いで陸奥守貞延は地元の浪人の手にかかり討死している。この戦より50年以上後、今川氏は義元の代で三河遠江駿河の広大な領土支配を実現することになる。

※参項文献
●『遠江史蹟瑣談』 岩田 孝友著
 『掛川誌稿』

 

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