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[大手門通り]掛川市大手

東海道の連雀交差点を左折した通りは大手門通りと呼ばれています。街道から大手門までの120mほどの短い通りの両側は、重厚な瓦屋根と白い漆喰壁の商店や市営駐車場の建物で江戸時代風の町並みに整備されています。

大手門通り
大手門通り

[掛川城大手門]掛川市大手

東海道から大手門通りへと右折して1つ目の交差点の左手に掛川城大手門があります。幅3間、奥行3間の二階建で、屋根は入母屋造本瓦葺、両開き板戸がついた楼門造櫓門です。平成4〜6年の発掘調査によって掛川城大手門と番所の位置が明らかとなり、平成7年(1995)周辺の区画整理により本来の位置から約50m北に復元されました。

 

往時の大手門

大手門とはお城の正門です。山内一豊の在城中に建てられた掛川城の大手門は、二層式の櫓門(楼門)でした。正保城絵図(正保は1644〜1647)などにその形が描かれていますが、嘉永7年11月4日の安政の大地震で倒壊し、安政5年(1858)に再建されました。門の形式や規模について藩の記録が無いため、復元された大手門は正確な姿を伝えるものではないようですが、発掘調査により柱の位置などが明らかとなっています。

 
 

関連リンク

●人物クローズアップ「山内一豊」
●地名のお話「城下町の地名」

掛川城大手門

[根固め石]掛川市大手

大手門の左側内部には、掛川城大手門礎石根固め石が展示されています。大手門は大きく重量のある門であったため、傾いたりしないよう基礎工事に工夫が凝らされていました。 これが平成5年(1993)の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」12個の内の一つです。直径2m深さ1m50cmくらいのおきな穴に、40cm前後の河原石を円形に4〜5段積み重ね、その上に門柱の礎石が置かれていました。 この根固め石は、新しく作られた道路に現地保存できないので、そのままの状態で取り上げました。
(参照:根固め石前看板)

礎石根固め石

[大手門番所]掛川市大手

大手門をくぐった20mほど先に大手門番所があります。
大手門番所は、場内に出入りする者の監視や警備をする役人の詰所でした。この番所は、掛川宿と掛川城とを連絡する唯一の番所で、城内に入城する者は全てここでチェックされました。現在残されている建物は、嘉永七(1854)年の大地震で倒壊後、安政(1859)六年に再現されたものです。番所が現存するのは全国的にも珍しく、昭和55年(1980)市の文化財に指定されました。 明治初年掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩士谷庄右衛門が居宅用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和53年(1978)に谷家より市へ寄贈されました。大手門の復元に伴って番所を配置し、現在地に移築・復元したものです。

大手門番所

[三光稲荷]掛川市大手

大手門番所の北側には三光稲荷があります。
三光稲荷は、山内一豊が掛川城主として文禄年間に城と城下町の大改築を行った時期に、豊臣秀吉の命で伏見桃山城の築城に加わった御縁で大手郭と大手厩(うまや)の鎮守として伏見稲荷を勧請され祀ったものです。

三光稲荷の由来は南北朝時代のはじめの延元元年、後醍醐天皇が京都の花園院から吉野へ御幸された時、深夜暗闇から難渋した途中 伏見稲荷の御前で
ぬばたまの くらき闇路に 迷うなり
われにかさなん みつのともし火(三の光)

と、御製を詠まれ、道中の安全と神助を祈願したところ、明るい一群の雲が現れ御幸の道を照らして無事に大和へ導かれたという故事があります。

三光稲荷

[大手門跡]掛川市大手

本来の大手門があった位置には、礎石根固め石のうち6ヶ所と番所跡の東部分の一部を表示して説明看板が設置されています。 平成5年(1993)に行われた発掘調査で、掛川城大手門の柱の礎石根固め石(12ヶ所)、番所跡、土塀の石垣が確認されました。遺構の位置を明らかにするために、道路と歩道上に根固め石と番所跡の一部を色に変化をつけて現しています。

丸は大手門の柱跡を示す
   

[大手門とその周辺の歴史]掛川市大手

山内一豊は、在城した十年間に掛川城天守閣を建立し、同時に城下町を拡張整備して近世城郭を形成しました。この大手門は、山内一豊が入城以前に街道の中町の北側、本丸の南側にあったもの(これを松尾口と呼ぶ)をこの整備の折に東方の連尺町(現連雀町)へと移したものであろうと言われています。
大手門は連尺町から土橋を経て入った正面にあり、侍町を伴う大手曲輪に構えていました。門内は通路が鍵の手に曲って橋に達し、橋を渡るとさらに大手門があって、山下曲輪を奥に進むと四辻があり、そこを西に曲ると本丸方面に達するという構成になっていました。
(参照:『掛川城大手門・番所復元整備報告書』掛川市教育委員会)

 

大手曲輪

大手曲輪は掛川城本城の東南にあり、大手曲輪と町屋の境は大手堀で隔たれていました。門の前には土橋(地続きの道)がありました。正保城絵図によれば、大手門東側の堀は神代地川まで続いており、42間(78.2m)深さ9尺(2.7m)とあります。土橋の所で道が左右から狭まり、両側に土塀がつけられていました。

「正保城絵図」大手門周辺の模式図
『掛川城大手門番所復元整備報告書』より

[大手門駐車場]掛川市大手

大手門駐車場は城下町の観光で大手門と道を隔てた東側、掛川城から150mほどの位置にあり、車での観光に便利な市営駐車場です。白い外壁にナマコ壁を施した外観と、外から車が見えない構造で、便利さと町の雰囲気に溶け込む配慮がされています。

大手門駐車場

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