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[十王橋]掛川市十王

円満寺から100mほど西には新知川が流れており、そこに架かる橋が十王橋です。
この橋には掛川宿の西番所がありましたが、現在はその史跡を示すものはありません。

十王橋

[十王堂]掛川市十王

十王橋沿い西側の道を南へ進み2つ目の角を右折した50mほどの右側に、十王町公会堂があり、その裏手に十王堂があります。
十王堂は別当を菩薩院という修験で、慶安元年()に掛川城主北條出羽守氏重が建立しました。一石五斗を拝領して町の南部を有していたため、町の名を十王町と呼ぶようになりました。本尊は地蔵尊で、左右に十王さまが列しており、庶民の間に十王信仰が盛んとなって人々の信仰を集めました。お堂の後には数抱えの松の木があったといい、かつては広い境内があったと思われますが、 現在は公会堂の裏手にひっそりと堂だけが残されています。 現在のお堂は大正十年に再建されたものです。

毎月二十四日は地蔵尊縁日、七月十六日は閻魔の斉日と称し閻魔堂を開張し、地獄の釜開き、亡者の骨休み日してお祀りしています。
(参照:『掛川誌稿』、十王区看板一部略)

十王堂

[広楽寺・三代目尾上菊五郎の墓]掛川市中央

十王橋を渡って左折し新知川沿いの道を南へ進み、JR東海道線手前の右手に広楽寺があります。旧紺屋町にあった寺を昭和49年に当地へ移転したもので、掛川宿で急死した三代目尾上菊五郎の墓碑があることで有名な古刹です。
嘉永二年(1849)四月二十四日、三代目尾上菊五郎は興業で掛川宿に滞在中仲町の揉金屋方で急死しました。初代菊五郎の菩提寺は江戸の「広楽寺」だったため、妻と付き添いが同じ名の「広楽寺」に葬儀の依頼をしたところ、江戸の「広楽寺」は掛川「広楽寺」の分寺であることを知り、不思議な因縁と喜んでこの地に三代目菊五郎の墓を建てたと伝えられています。 墓は修繕されていますが、碑は当時のものをとどめています。

墓の前には五代目菊五郎が発起人となって建てた追悼供養碑があります。碑の裏には音羽屋一門の名が並び、明治29年建立と刻まれています。

三代目尾上菊五郎の墓
広楽寺・手前は追悼供養碑

[遠江塚]掛川市下俣

遠江塚は掛川駅の西南700mほどのところにあります。十王橋から二つ目の交差点を南へ進み、JR東海道線ガード下の左右にある歩道の西側を歩いてガードをくぐり、2本目のT字路を右折すると閑静な住宅街の中に老樹をたたえた遠江塚が見えてきます。
「遠江塚」は、わずか19歳という若さで自決した掛川城主松平隠岐守定勝の長子遠江守定吉を供養するために築かれた塚で、上に五輪塔がすえられています。案内板には「塚は古墳時代の円墳を利用したものと思われます」とあります。五輪塔には献花があり、塚内は自然の姿を保ちながら手入れが行き届いて、今も大切に祀られています。

 

関連リンク

●昔ばなし「遠江塚」

 

遠江塚入口
遠江塚

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