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[福天大権現]掛川市伊達方

八坂の交差点から400mほど西へ進んだ右手に福天大権現の道標があります。これは、南に延びた県道の先にある菊川町西方の洞谷山龍雲寺を目指す人を案内したものです。龍雲寺の敷地内にある福天大権現は寛保元年(1741)に天狗を奉って人々の信仰を集め、願かけにご利益があるといわれました。福天大権現は東海道名所図絵などの道中記に紹介されたことから、このような道標が建てられたのでしょう。碑は高さ1m強の石柱で、「西方村福天大権現本道」、「是よりしかたむらごんげんまでみちの里二十三丁 都合壱里□□」、寛保2年(1742・江戸中期)と刻まれています。

※□□は欠損して読めない部分

 

関連リンク

●昔ばなし「福天天狗さま」

事任八幡宮

[伊達方一里塚]掛川市伊達方

東海道と東名菊川インターへ向かう道とのT字路に伊達方一里塚があります。ここ伊達方の一里塚は江戸から57番目の塚で、明治33年頃に取り壊されていたのを最近整備したものです。当時の一里塚は、直径七間、高さ三間の小山が南北に築かれ、場所も現在の位置から50mほど西側でした。

現在は真新しい石柱と一里塚の目印である松の木が植えられ、旅人に休息をあたえるベンチが置かれています。

伊達方一里塚

[石川依平の碑]掛川市伊達方

伊達方一里塚のT字路を通過して150mほど先の右手に石川依平生家の碑があります。
石川依平は、遠州の国学に名を残した人で、冷泉家の門人として和歌にも秀でていました。六歳にして歌を詠んで奇童といわれるなど、依平の早熟ぶりは数々の書物に記されています。 十七歳の頃に本居宣長の国学にふれ、それまで名乗っていた方救(よりひら)を依平と改めて、賀茂真淵直門の弟子である栗田土満(くりたひじまろ)の門下となりました。家が東海道のかたわらにあったことと、略伝に「...先師の待遇、さらに倦厭の色なし」と記されるほどの人柄もあってか諸国の学者や歌人と交流を深め、門人は十余国の人々三百余名に登ったと伝えられています。

石川依平生家の碑
石川依平肖像画

[慶雲寺への道標]掛川市伊達方

石川依平生家の碑脇にある道を隔てた西側に、慶雲寺への道標があります。碑には「慶雲寺道□是五丁」(※一丁=109m強)と刻まれてあり、ここから国道一号線を横切って600mほど北進すると、名刹慶雲寺があります。

東海道は、ここから再び国道一号線と合流します。

慶雲寺の道標

[龍門山慶雲寺]掛川市伊達方字寺ヶ谷

龍門山慶雲寺はこの辺り一帯を統治していた伊達氏の菩提寺で、墓苑には伊達方城の城址があります。開基は伊達縫殿助、開山は順叟周孝和尚で天文十五・1546年没との記録があることから室町後期の創立と伝えられます。粟ヶ岳中腹の長松院の末寺にあたり、禅寺らしい落ち着いた本堂は長松院を模した印象があります。

 

関連リンク

●地名のお話「伊達方」

 

龍門山慶雲寺

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