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地名のお話
第10回 中世の武将に由来する地名 2000.02.15
中世、政治は公家から武家へと移る混乱期にあって朝廷の権力は衰退し、各地で内乱が勃発しました。中央の弱体化を見てとると、地方の豪族たちは中央の支配にあった荘園・寺社領を戦力でまたは恩賞として獲得していきます。南朝方の要所と目されていた遠江の地では、旧東海道周辺の小さな山々に、戦に備えた防衛基地として砦や城が築かれ、豪族の所領となった土地は領主の名で呼ばれるようになりました。 | |||
伊達縫殿助と伊達方村(だてかたむら) 掛川市伊達方
東海道沿いにあり、一里塚跡が残る伊達方村の地名は、中世の豪族伊達氏の墟があったことから付いたと思われます。 *1:時代的に本来の開基は伊達忠宗だが、仏家の作法として本人の今日ある最大の恩師へ遺徳をたたえて開基としたものと考えられる。(『東山口小史』岡本春一著より) |
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松葉の里厩平(うまんだいら)と河合蔵人成信 掛川市倉真字松葉
掛川市倉真(くらみ)郷は中世の在地土豪河合氏の領地であり、居城「松葉城」の跡地には、倉真字松葉の字名が残され松葉の里と呼ばれています。
松葉の里から倉真川に降りて、対岸の畑地の急斜面を登って尾根に出てしばらく登ったところが松葉城址です。松葉城跡碑が建つ山頂付近は字「城山」と呼ばれ、自然の要害を活かしたとりでであったことが伺われます。さらに北側に広がる平地には「厩平(うまんだいら)」と呼ばれるところがあり、河合氏の居館跡と思われます。また、初馬から初馬城跡へ登る道は「殿道」と呼ばれますが、初馬城は河合氏居城との説は確かではありません。
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中殿谷(なかとのや)と原氏次男原 頼俊掛川市本郷 掛川市本郷にある「中殿谷」の小地名は、原氏三男子の中兄頼俊が住んでいたことから、「中の殿様の地」の意でそう呼ばれるようになったと言われます。原氏がこの地に土着したのは、義経が一ノ谷の合戦に挑むとき従った原三郎清益が、平家追討の功により本領を賜り本郷に館を構えたのが始まりと伝えられます。 頼俊について『原氏家譜私考』には、「頼俊三男子の中にして、武勇最も優れたり、人呼んで中の殿と云、故に中を以て氏となす、即ち中氏の始也…」とあります。 |
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鞍橋池(くらぼねいけ)と堀越陸奥守貞延の伝説 掛川市逆川 掛川市東山口にある「鞍骨池」には、中世武将の名馬にまつわる昔話が残されています。享徳五年、今川氏一族である堀越入道陸奥守貞延が、小笠の土豪横地太郎、勝間田修理亮等の軍勢に追われて池下の池に馬の鞍を投げ入れ、自身は鞍壺坂の山崎彦右衛門宅前で逃げる術を失い自決したという話で(昔ばなし第9話参照)、この史実から鞍を投げ入れた池が「鞍骨の池」と呼ばれるようになったと伝えられてます。
このように『掛川誌稿』では、鞍骨池の地名は山間に挟まれた地にある地名で「倉間(クラマ・山の間の意)」から鞍馬(クラマ)と転じて変化したと推察しているようです。また、これに言及して 郷土史家岡本春一氏は、著書『東山口小史』の中で「当を得た解釈」としながら「また、牛頭村の地形が馬の背によく似ており、旧東海道がこの馬の鞍の部分を通っていたことから鞍間の池の名が付いたと考えられる。」と付記しています。
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西郷八郎と西郷(にしざと)地名の関係 掛川市西郷
掛川バイパス西郷インターチェンジから倉真川沿いに北に伸びた一帯を西郷といいます。『掛川誌稿』には、西郷の地名は享徳四(1455)年を初見とし、応永の頃(1394〜1427)西郷氏が三河から乗住したことによるものと書かれていますが、「掛川の古城址」の著者林氏は、別の文書を示してこれを誤りと記しています。 |
*参考文献 『掛川誌稿』 『東山口小史』岡本春一著 『掛川の古城址』林隆平著『東海道小夜の中山』中部建設協会 『遠江の城』郷土出版社 *画像提供 『掛川の古城址』林隆平著
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