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地名のお話

第10回 中世の武将に由来する地名 2000.02.15

中世、政治は公家から武家へと移る混乱期にあって朝廷の権力は衰退し、各地で内乱が勃発しました。中央の弱体化を見てとると、地方の豪族たちは中央の支配にあった荘園・寺社領を戦力でまたは恩賞として獲得していきます。南朝方の要所と目されていた遠江の地では、旧東海道周辺の小さな山々に、戦に備えた防衛基地として砦や城が築かれ、豪族の所領となった土地は領主の名で呼ばれるようになりました。

伊達縫殿助と伊達方村(だてかたむら) 掛川市伊達方

慶雲寺墓苑と位置図

東海道沿いにあり、一里塚跡が残る伊達方村の地名は、中世の豪族伊達氏の墟があったことから付いたと思われます。
遠江国で伊達氏が登場する記録は、正平六(観応1351)年11月、伊達藤三景宗が軍忠状を提出し証判を受けた文書が初見といわれます。当時遠江は南朝方の根拠地として期待されており、この軍忠状は、前年に起こった手越原の戦い等に対する恩賞を今川範国にあてて請求したものです。これにより伊達景宗には、天王社(諏訪神社)に黒印が与えられ、牛頭村を神領として拝領しています。さらに景宗は翌六年十二月二十二日には右近将監の位を賜っていることから、この時期に本所村他五村の拝領があったものと推察されます。伊達方の地名は、この時を起源としたものと思われ、この景宗が伊達縫殿助のことであろうと言われています。
伊達方城域の北部、現国道一号線掛川市農協の交差点を北上した地(字寺ヶ谷・てらがや)に慶雲寺があり、その開基は伊達縫殿助(*1)とされています。現在慶雲寺墓苑となっているところに伊達氏の居館があり、山頂には伊達方城がありました。現在は曲輪、土塁、堀切が残るのみです。 また、高天神城の戦で戦功をあげたと伝えられる伊達源蔵は伊達氏一族の者で、大原子ノ山に伊達源蔵塚という塚があるとの記録もあります。伊達氏は天文(1532〜1554)の初めには断絶していたと伝えられますが、江戸時代元禄年間、本所・大原子で伊達三郎兵衛の代より宝永元年にその職を譲るまで、代々庄屋を勤めた伊達氏は伊達源蔵の流れを汲むものといわれます。

*1:時代的に本来の開基は伊達忠宗だが、仏家の作法として本人の今日ある最大の恩師へ遺徳をたたえて開基としたものと考えられる。(『東山口小史』岡本春一著より)

松葉の里厩平(うまんだいら)と河合蔵人成信 掛川市倉真字松葉

松葉城跡図と位置図
城図提供:林隆平氏

掛川市倉真(くらみ)郷は中世の在地土豪河合氏の領地であり、居城「松葉城」の跡地には、倉真字松葉の字名が残され松葉の里と呼ばれています。 松葉の里から倉真川に降りて、対岸の畑地の急斜面を登って尾根に出てしばらく登ったところが松葉城址です。松葉城跡碑が建つ山頂付近は字「城山」と呼ばれ、自然の要害を活かしたとりでであったことが伺われます。さらに北側に広がる平地には「厩平(うまんだいら)」と呼ばれるところがあり、河合氏の居館跡と思われます。また、初馬から初馬城跡へ登る道は「殿道」と呼ばれますが、初馬城は河合氏居城との説は確かではありません。
※掛川市東北部は、大井川の氾濫を避けた旅人たちが、島田から北方に迂回して五和村、志戸呂を経て大代川を遡り、安田から粟ヶ岳の南側山腹をまわって人里に出る往昔の山街道があり、この山街道筋には城が多くありました。松葉城もそのひとつです。

中殿谷(なかとのや)と原氏次男原 頼俊掛川市本郷

掛川市本郷にある「中殿谷」の小地名は、原氏三男子の中兄頼俊が住んでいたことから、「中の殿様の地」の意でそう呼ばれるようになったと言われます。原氏がこの地に土着したのは、義経が一ノ谷の合戦に挑むとき従った原三郎清益が、平家追討の功により本領を賜り本郷に館を構えたのが始まりと伝えられます。 頼俊について『原氏家譜私考』には、「頼俊三男子の中にして、武勇最も優れたり、人呼んで中の殿と云、故に中を以て氏となす、即ち中氏の始也…」とあります。

鞍橋池(くらぼねいけ)と堀越陸奥守貞延の伝説 掛川市逆川

掛川市東山口にある「鞍骨池」には、中世武将の名馬にまつわる昔話が残されています。享徳五年、今川氏一族である堀越入道陸奥守貞延が、小笠の土豪横地太郎、勝間田修理亮等の軍勢に追われて池下の池に馬の鞍を投げ入れ、自身は鞍壺坂の山崎彦右衛門宅前で逃げる術を失い自決したという話で(昔ばなし第9話参照)、この史実から鞍を投げ入れた池が「鞍骨の池」と呼ばれるようになったと伝えられてます。
この話と池の名の由来について『掛川誌稿』は次のように記しています。

昔堀越入道ナルモノ、此池塘ニシテ自盡セシ時、其鞍橋ヲ此池塘ニ埋メタルユヘニ名 ツクト云、入道ノ墓ハ池東牛頭村ノ鞍壷坂ニアリ、按ニ此池ヲ築シハイツノ事ニヤ詳 ナラネト、此池ノ北ニアルヲ池下町ナト呼ヘルヲ以テ思エハ、古キ池ト見ユ、又此池 塘モ山間ニヨリテ築シサマナレハ、恐クハ倉間ヲ鞍馬ト書ケル類ニシテ、倉ノ字ヲ負 ヒテ山間ニヨレル地名ニヤ、鞍橋ヲ埋メシト云ハ、恐クハ附會ノ説ナルヘシ

このように『掛川誌稿』では、鞍骨池の地名は山間に挟まれた地にある地名で「倉間(クラマ・山の間の意)」から鞍馬(クラマ)と転じて変化したと推察しているようです。また、これに言及して 郷土史家岡本春一氏は、著書『東山口小史』の中で「当を得た解釈」としながら「また、牛頭村の地形が馬の背によく似ており、旧東海道がこの馬の鞍の部分を通っていたことから鞍間の池の名が付いたと考えられる。」と付記しています。

 

西郷八郎と西郷(にしざと)地名の関係 掛川市西郷

足利尊氏下文冩(あしかがたかうじくだしぶみうつし)

富樫介高家
可令早領知・加賀國守護職
竝遠江國西郷庄・小檪孫四郎・同弥次郎
中原弥次郎等跡
信濃源志介跡


右人為勲功之賞 所充行也 者、守
先例可至沙汰状 如件

建武二年九月二十七日

『掛川の古城址』林隆平著より

掛川バイパス西郷インターチェンジから倉真川沿いに北に伸びた一帯を西郷といいます。『掛川誌稿』には、西郷の地名は享徳四(1455)年を初見とし、応永の頃(1394〜1427)西郷氏が三河から乗住したことによるものと書かれていますが、「掛川の古城址」の著者林氏は、別の文書を示してこれを誤りと記しています。
西郷の庄は、右の文書から、建武二(1335)年には成立していたはずで、翌四年二月五日の文書には土豪の西郷八郎の名が見られることから、西郷氏は南北朝以前に上西郷に勢力をもった山科家の所領地を管理する立場にあった地頭の身分であり、『掛川誌稿』説の三河の西郷氏とは別人であると林氏は指摘しています。
さらに古く「遠江國佐野郡日根郷(西郷庄)有 小高御厨」との記録もあり、伊勢神宮の奉祀をつかさどる小高御厨が成立したことを伝えていることや、西郷の局が西郷斉宮との関係を否定する文書を示しながら、西郷斉宮の場合、おそらく斎宮に関係するものの屋敷がいつの頃からか土豪の屋敷となり、移り変わる館の重複が混同して伝えられたものであろうと推察しています。


参考文献 『掛川誌稿』
  『東山口小史』岡本春一著
 
『掛川の古城址』林隆平著
  『東海道小夜の中山』中部建設協会
  『遠江の城』郷土出版社
画像提供 『掛川の古城址』林隆平著

 

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