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地名のお話

第4回 『日本統治のなごり−牧之原、御林』

牧之原 榛原郡金谷町

 今は日本一の大茶園が広がる牧之原台地。この南北40キロに及ぶ牧之原の地名は、国の公営牧場である官牧があったことに由来します。

 今からおよそ1300年前の天智7年、近江の国に初めて公営の牧場がつくられ、馬の放牧が行われました。その後文武4年(675)に諸国に牧を置くことが定められ、遠江にも官牧がおかれました。大宝律令の完成してこの官牧は「白羽牧」と呼ばれ、飼育された馬のうち良馬は朝廷に貢納されました。
 延暦11年(792)になると奈良朝の終焉、国の軍事体制の崩壊によって官馬の需要は急速に減少し、律令の税制が崩れたために、私的に開墾された田畑が増えてきました。この頃から、白羽の官牧は縮小され、変わって地元住民の手によって私牧が営まれるようになりました。この牧は次第に西へと広がって、小笠山周辺に「笠原牧」を形成し、また一方には台地周辺の侵食谷の川岸段丘を追って相良から湯日へ、湯日からさらに質呂(しとろ)へと北に広がりました。この北に広がった私牧は台地に沿って北上したので、いつしかこの台地が牧之原と呼ばれるようになったといいます。

 掛川誌稿には「牧野原は北は質呂に起こり、此村に至って駅路をこえ、西南に長くのび、(中略)北の方をのみ牧野原と呼びて、南の方に至っては、其の属する所村名を以て原の名とし、鎧塚原、湯日原、矢口原、川崎原と呼ぶなり。」とあり、昔は北側の一部を牧之原と呼んだとみられ、それらの原を総称するには布引原の名称が使われていたとも記されています。総称して牧之原と呼ぶようになったというのは、明治2年の士族入植記録には「金谷原」の名が使われていることからもわかります。

 

参考文献 『遠州の史話』神谷昌志著 静岡新聞社
  『榛原町の地名』榛原町教育委員会
  『牧之原開拓史考』大石貞男著 静岡県茶業会議所

幕府直轄林の地「御林」

 

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