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地名のお話

第1回 『小夜の中山−1.サヤとサヨ−』

南北朝まで「サヤとサヨ」

お茶街道でももっとも古の面影を残す場所「小夜の中山」。現在は「サヨの中山」というが、古くは「サヤの中山」といった。
 歴史的に小夜の中山のことが出てくる最も古い記録は、『古今和歌集』である。 甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく 横ほり臥せるさやの中山 (1097) 東路の佐夜の中山なかなかに なにしか人を思いひそめけむ (594) これら2つが小夜の中山のことを詠んだ一番古い歌である。いずれも「サヤの中山」といっている。 次に出てくるのが、平安時代中期の『更級日記』で、やはり「サヤの中山」とある。平安時代末期になって西行法師は次のように歌った。 年たけてまた越ゆべしと思いきや 命なりけり佐夜の中山 (『新古今和歌集』987) この「佐夜」はサヤと読んだに違いない。他にも同じ『新古今和歌集』に、いくつか小夜の中山を詠んだ歌があるが、それらにはサヨとサヤの二通りの読み方がある。夜の情景を表現する場合にはサヨといい、爽やかな雰囲気を表わそうとしている場合にはサヤを使ったように思われる。 鎌倉時代中期の『海道記』には「佐屋」とあるから「サヤ」であろうが、同じ頃の『東関紀行』には「小夜の中山」とあり、サヤともサヨとも読める。また、『十六夜日記』になると「さやの中山越ゆ」とあったり、「松風送るさよの中山」とあったり、同じ日記にサヤとサヨの二通りを使っている。このころは現地でも二通りのいい方が生まれていたのであろう。三代将軍源実朝の『金槐和歌集』でもサヤとサヨの両方を用いている。
 こうなると、この地の呼び方について疑問を抱く人がでてきても当然である。南北朝の頃の僧で、宗久(そうきゅう)という人が『都のつと』(『群書類従』所収)という紀行文の中で、おおよそ次のように書いている。 〜左右あけてテーブル〜 「さやの中山、さよの中山」と二つの説があるらしい。中納言師仲が遠江国の国司として赴任してきたとき、土地の人は「さよの中山」といっていたと書いているので、私はどちらがいいか土地の老人に聞いてみた。老人は即座に「さやの中山」と答えたので、 ここは又いくつととへはあまひこの 答ふる声もさやの中山 と歌った。
 このことから南北朝の時代にも、サヨともサヤともいっていたことがわかる。  室町時代の永享四年(1432)に飛鳥井雅世(あすかいまさよ)が書いた『富士紀行』にも、サヤとサヨの両方が使われている。また万葉集から室町時代までの二十一の勅選和歌集の歌を集めた『国歌大観』には「さやの中山」が28首、「さよの中山」が17首あるという。(『掛川市誌』)。
 このように見てくると、古代にはサヤと言っていたが、中世になると、二通りの読み方が生まれ、多くはサヤと読んでいたことがわかる。
  ところが江戸時代になると、たいていサヨというようになるのである。江戸初期の『東海道名所記』では「小夜の中山」と記し、しかも、その中で引用されている西行の歌の「佐夜」が「さよ」となっている。また、芭蕉の紀行でもすべてサヨである。江戸時代後期になって、古典に詳しい国学者や歌人はサヤということもあるが、地元をはじめ、旅人、そして江戸や上方で上演された歌舞伎や浄瑠璃ではサヨというようになった。それ以来、現在までサヨと呼ばれている。

サヤの語源

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