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地名のお話

第1回『小夜の中山−サヤとサヨ−』
[サヤの語源]

 サヤの語源は悪霊をさえぎる塞の神(サイノカミ)である  それでは、なぜ古くはサヤといわれたのか、その語源を探ってみよう。
 まず、この峠が狭い谷に挟まれた細い堤のような道であるため、狭谷、すなわちサヤである、というのが『掛川誌稿』以来の説である。これは『海道記』の記述をふまえて考察したもので、これが佐夜郡という郡名になったともいわれている。
 これに対して、民族学を創始した柳田国男氏は、この山は「遠くの旅人には幣を奉る神、近い里人には里の守を祷る神」がいるから、その神に手向けをして通ったところではないか、と新しい見解を提出した。そしてこれを受けて野本寛一氏は、「サヤ」は「塞(さや)」のことで「さやる」の語幹である「塞」が固有名詞となったものであろう。「小夜の中山」の「サヤ」は悪霊をさえぎる「塞の神」を祭る峠であって、その象徴が手向けの石である。その神聖な石が、時を経て「夜泣き石」として伝承されたのだという。
  交通上の境界を示す「中山」 「中山ということばもまた、境を示す意味があるという。このことについて黒田日出男氏は、『境界の中世 象徴の中世』の中で、紀伊国(きいのくに)と和泉国(いずみのくに)との国境にある「鬼の中山」や、美作国(みまさかのくに)と伯耆国(ほうきのくに)との国境にある「三日月の中山」、近江国と越前国の国境にある「荒乳の中山」の例をひいて、次のようにいっている。 (左右アケ)
 国と国との境をなす山を中世では「中山」と称していたことが明らかであろう。もっとも、国堺の山ならどこでも「中山」と名付けられた訳ではない。注目すべきは、挙示した国堺の「中山」の例すべてに、両国を結ぶ道が通っていることである。つまり「中山」は、そのような道の境界、交通路の境界をなしている点で共通しているのである。その点では、前述の「小夜の中山」も同様で、東海道の峠であった。おそらく、交通上の境界をなす山(峠)が「中山」と名付けられたのではあるまいか。(中略)「中山」は、したがって、一般的に定義すれば次の如くなろう。すなわち、中世の人々は、地域間に道を作り相互に交通・交易を展開していったが、そのような両地域間の交通(路)上の境界をなす山=峠を「中山」と称した。
 このように、中山という地名があるところは、国と国とを結ぶ道が通っており、交通上の境界をなす山(峠)を指すことが多く、小夜の中山もそのひとつであるという。  ただ、この峠を長山と表現している記録もある。連歌師宗長(れんがしそうちょう)は『宗長手記』の中で、昔ここを長山といったのは「四郡の中に有て、山、長かりければにや」といっている。馬の背中のように細くて長い尾根道を通るし、四つの郡を通り抜けるのだから長山と感じるのは当然であろう、というのである。この説は『掛川誌稿』でも紹介されている。
 確かにこの峠は、谷と谷との間にできた細くて長い峠道であるから、狭(峡)谷あるいは長山と考えられなくもないが、やはり悪霊をさえぎる峠であり、しかも「中山」という境界を示す峠であり、その峠に手向けをしながら旅人は通っていったと考えた方がよいであろう。

*転載 『東海道小夜の中山』(社)中部建設協会

『小夜の中山−サヤとサヨ』

 

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