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地名のお話
第5回 『鎌倉時代の城阯から−美人ヶ谷−』
美人ヶ谷は掛川市上西郷の中央より少し北側に位置し、広大な地域の中に70戸ほどの人家が点在する集落です。かつては他地区の人々が入って耕作したほど農業が盛んな土地で、古くから地元の人で耕地の土地改良が施された地域でした。ここ美人ヶ谷に残された地名について、いくつかご紹介しましょう。 二階堂
南北を県道掛川川根線が貫いており、美人ヶ谷地区は東と西の2組に別れています。西の人たちは二階堂観音の祭祀を主催しています。この地を「二階堂」と呼び、地元の古老の話では、その昔は馬に乗った武士が観音堂から少し離れた街道を通る折に、お堂のところまで来ると馬を降りて通ったというほど敬われた観音様だといいます。 城の壇 美人ヶ谷地区中央に南北に連なる山の大きく突出している処のことを地元の人々は「城の壇」と呼びます。その南方西側には山本神社があり、神社東側の少し高くなったところ、昔山本学校のあった阯を「学校屋敷」といっています。掛川市で古城研究をされている林隆平氏によれば、ここが美人ヶ谷城主の館阯ではないかとの説もあります。美人ヶ谷城は殿垣戸城とも呼ばれた城で、大手口の東下を保戸貝戸といい、ここに旗貝戸という地名があり、大手口の場所が推測されることからここを館阯と推測しています。南側に掛川市街地全景を望む見晴しの良いところです。
政所 池ノ谷を西に降りて北へ300mほど行ったところに「政所」と呼ばれるところがあります。西北には「門取」の地名があり、政所より東約100m離れたところに二階堂民部少輔美啓の御側用人、戸塚平内左衛門辰信の元屋敷と云われる馬場屋敷という屋号のところがあります。政所は二階堂美啓が最初に落ち着いた、または子孫が政治を司ったところではないだろうか。また、馬場屋敷から南東200mほど先には、名は不明の武士が落馬して死んだので昔は墓があったが、側を通る人に祟りがあるので、墓を菩提寺へ移し榎の木が1本残されて榎様と呼ばれています。
やかん田
観音様の前方を流れる倉真川の近辺を市上といい、市上田圃の中に「燗田」という地名があり、その起原がおもしろい。石ヶ谷の松井という家の主人が、田圃でお湯を湧かしていたとき、倉真村の岡田左平治翁が田圃の見回りに来て、松井家のやかんを見て欲しくなり、やかんと田圃と交換して以来「やかん田」と呼ばれているそうです。また、やかん田の東側には一本の木があり、青木と称されていました。ここは、美人ヶ谷の戸塚家の元屋敷で、地の神が祀られていた所だといいます。 堤が谷 やかん田から東側の「堤が谷」について。古老の話では、今からおおよそ800年の昔、堤中納言兼輔という公卿が和歌神寿録を批評した罪で追放された時に隠れていたところであるとのことです。また、その古老は朝比奈氏との関係についても語っています。堤中納言兼輔は子が授からなかったため、八幡様に子授けの祈願をし、満願の夜、子持坂に差し掛かった時、狼が布切れに包まれた赤子を堤中納言兼輔の前において立ち去りました。子どもは安吉と名付けられ、兼輔が京に戻った後も朝比奈の里で育てられ武勇絶倫の武士に成長し、この安吉が朝比奈備中守安吉だと話されています。 美人ヶ谷 今からおよそ700年前、鎌倉時代から明治時代の初期までは、粟ヶ岳から倉真、前之谷、美人ヶ谷、石ヶ谷辺りは東海道に次いで人馬の往来が多く、美人ヶ谷あたりは交通の要所で、ここに足を止めた人も多数ありました。また、殿垣城は初代の城主である二階堂氏から西郷氏、のちに石ヶ谷氏の居城であったから、婦人もいれば美人も多くいたことでしょう。時には宴会や茶会などの華やかな催しもあり、琴も弾けば鼓も打たれたところであったと想像されます。 |
*参考文献 | 『ふる里かけがわ第4集』掛川市教育委員会 |
戸塚善馬氏著部分
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