You are here: TOPPAGE 歴史探訪案内 地名のお話 第6回『武田徳川攻防の歴史−孫九郎淵−』  

地名のお話

第6回 武田徳川攻防の歴史『孫九郎淵の由来』

 地名の呼称が変わって、今はもう呼ぶ人も少なくなった地名はいくつもあります。現在の榛原郡金谷町金谷河原にあった「まんく」という地名は長い年月を経て呼称が変化し、その由来も年長の方しか知らない地名です。昔は大きな淵があり地名にまつわる伝承がありましたが、今では淵は埋め立てて小学校が建てられ、昔の面影はありません。

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まんく

孫九郎からまんくへ

 金谷町の「まんく」と呼ばれたところにあった「孫九郎淵」は、今のお年寄りが子どもだった頃にはこんこんと水の湧き出る淵でした。「淵の主はウナギだそうな」と大人たちから教えられると本気にしたほどの淵であったといいます。場所は現在の金谷小学校のあたりで、当時の人々はこのあたりを皆「まんく」と呼んでいたそうです。孫九郎淵が短縮されていつしかそう呼ぶようになったのでしょう。
 この淵が「まんく」と呼ばれたのには昔からの言い伝えがあります。地元の古老によると、

 昔、都で戦いに破れた孫九郎という武士が、この淵の近くまで落ちのびてきました。しかし、残党狩りに遇い万九郎はこの淵の近くで討たれてしまいました。村の人々は万九郎をあわれに思い、この淵に万九郎淵と名付けてその霊をなぐさめました。 それから長い年月が流れ、呼び名が短くなり「万九」と呼ばれるようになりました。

ということです。

 

まんくphoto
まんくの現在

『金谷町誌』に「まんく」の由来について次のように記されています。

昔し相賀山と牛尾山との間を切り開きて大井川の水を流せしより其川跡醤王寺山の下淵となる本目隼蔵三州方と不和になり東山(無間山)の下にて合戦討死の時其郎等本間孫九郎大勢を相手に戦ふと難ども武運盡きて此処に戦死せり故に孫九郎淵と云ふ今『まんく』と云ふは誤りなりと云ひ傅ふ

現代語(羽衣出版『遠江の伝説』より)
昔、相賀山と牛尾山との間を切り拓いて、大井川の水を引いたことがあった。その川跡は医王寺山の淵となっているが、大目隼蔵という者が、三州方(三河方・家康方)と不和となり、東山(無間山)の下で合戦して討ち死にした。隼蔵の郎党の本間孫九郎は多勢を相手に力戦したが、ついにこの淵のあたりで討ち死にした。それで孫九郎淵と呼ばれるに至ったのである。

 

古老の話にあった「万九」という呼称は、家康が天下をとる17世紀から近年までの間使われていたということになります。
  また、『掛川志稿』志戸呂村の項に次のような記述があります。

「万九淵金谷境にあり、昔大井川の流れたる時の深淵の跡なり、万九郎という者此処に没して死したりより、淵の名となる。」

戦国時代の城の位置図

戦国時代の大井川周辺

 金谷の石畳のそばにある諏訪原城は、武田信玄が天正元(1572)年に武田勝頼(信玄の息子)が馬場美濃守に命じて築かせた城です。大井川流域には、小山城、相良城、高天神城など、駿河・遠江の領有を狙う戦国武将の拠点が多くありました。
 この辺りは、今川義元が桶狭間の戦いで死去(永禄3・1560)したことにより武田・徳川の侵攻を受け、幾度か戦場となっています。永禄11(1568)年、信玄と家康が大井川を境に分割領有するという密約を結んで今川を攻め、両者とも駿遠二国の支配を狙っていました。その戦いは信玄の死後も続き、大井川流域とその周辺は約15年にわたって戦乱に巻き込まれました。
 淵で倒れた孫九郎や大目隼蔵が何れの手勢かは不明ですが、この長い戦乱の間に庶民は戦乱に巻き込まれ、多くの手傷を負った武士や死骸を目にしていました。また、庶民の間でも武士たちの武勇も伝えられていたことから、このような地名が残されたのでしょう。

参考文献 『東海道金谷宿昔ばなし』金谷町教育委員会
 
『金谷町誌稿』
  『掛川志稿』
  『遠江の伝説』羽衣出版
*画像提供 『東海道小夜の中山』中部建設協会

 

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