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地名のお話

第2回 『遠い淡海の国−とおとうみ−』

近淡海と遠淡海

天明6年(1786)、五升庵蝶夢が浜名湖遊覧の一日を記した紀行文『遠江の記』に、遠江国の国名について美しい文章で綴られている。

  そもそもことふりにたれど、宮古(みやこ)に近き江ありとてちかつ淡海、みやこに遠き江あるをとほきあはうみと、国の名にしも付させたまひける・・・(略)いたづらならぬをも覚えぬ。  
都(ヤマト)に近い淡水湖である琵琶湖の周辺を「近淡海」というのに対して、都から遠い地にある淡水湖を「遠淡海」と名付けたときくが、なるほどと思う−と蝶夢は述べている。
 遠江国は、大井川の西側、浜名湖周辺の遠州平野一帯をさす。この地名が、文書に残されたかたちではじめて登場するのは、『旧事本紀(くじほんぎ)』で、「遠淡海(とうつおうみ)」と記されている。この名は、蝶夢が記しているように、先の大和が都であった頃、琵琶湖(滋賀県)を近淡海(ちかつおうみ)と称したのに対して、遠くの淡水の海(大きな湖)として呼ばれた。この湖とは、浜名湖をさすというのが一般的だが、一説には「磐田湖(大之浦か)」ともある(日本地名大辞典)。今では遠州灘とつながっているため浜名湖は淡水湖ではない。しかし、浜名湖周辺の地形は現在までにだいぶ変わっていて、浜名湖は海とつながっていない淡水湖であったが、明応7年(1498)および永正7年(1510)の大地震で海との境が欠壊して海水が入るようになったという。
 『旧事本紀』の「国造本紀」(6〜7世紀)の初見では、成務天皇のと きに伊岐美命(いさみのみこと*1)が遠淡海国造に任じられたとあり、その国の数は全国で134あげられている。大化の改新以後の律令制中央集権国家が確立して国郡
     
 
遠江小図 浜松市博物館蔵
 
 
制が実施されると、これらの国々は統合され、遠淡海国、久努国、素賀国が遠江国に属することになった。書き方が「遠淡海」から「遠江」に変わったのは、和銅6年(713)に「国、郡、里の名は2字を使うように」と勅命が下ったことによる。
 『掛川誌稿』国名には、トオトウミの様々な記述の仕方が、次のように記されている。
  遠江ヲ止保太不美(タホタフミ)ト訓ス。遠淡海(トホツアハウミ)ノ約言ナリ、旧事記ニ、遠淡海、万葉集ニ等保都安布美(トホツアフミ)又等倍多保美(トヘタホミ)、倭名鈔ニ、止保太阿不三トアリ・・・  
誤字もあるかも知れぬというが、近江の国に対して付けられた名であることは確かであれ、その淡水湖がどこをさすのかはっきりとしないと述べている。ただ、最近(当時、江戸)では浜名湖をさすらしいとある。

註*1:『遠江国風土記伝』には印岐美命(イキミノミコト)とある。

 

参考文献 『日本地名大辞典』 角川書店
  『遠江の里』ひくまの出版社
  『掛川誌稿 全』静岡新聞社
  遠江国風土記伝』

万葉集にみる「とふつあふみ」

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