You are here: TOPPAGE 歴史探訪案内 地名のお話 第4回『日本統治のなごり−牧之原、御林』  

地名のお話

第4回 『日本統治のなごり−牧之原、御林』

御林 掛川市日坂

 牧之原から佐夜鹿(さよしか)を抜けて、中山峠から数キロほど入ったところ、日坂の北に位置する集落が日坂字御林(おはやし)です。御林とは、江戸時代この辺り一帯が天領の御用林(幕府直轄の山林)であったところからついた地名です。
  今では御林の南斜面には茶園が広がり掛川茶産業の基盤となっていますが、明治以前は道なき道を進まなければ入れない土地でした。国道1号線から御林に向かう山道から枝道に入った雑木林の中に、「右 新道 菊川 金谷 左 五和 川根 安田」と、梵字とともに刻まれた道しるべがあります。明治維新のころ、金谷の杉本権蔵が牧之原開墾のために川越人足を連れて入植したのがこの御林で、この道しるべは、道に迷う人がないように杉本権蔵が晩年建てたものだそうです。

明治13年の中山新道料金表(佐夜鹿)

 杉本権蔵が牧之原開墾を始めたのは明治3年のこと。そのころ金谷から御林までのルートが確保されていなかったため、入植者たちが住む御林から開墾地である牧之原までの往復は容易ではありませんでした。新しい道路建設を望んでいた権蔵は、とうとう明治12年に金谷から日坂に至る「中山新道」建設に着工し、明治13年に開通。その建設資金の一部は通行者から道銭を取ることで返済する計画でつくった有料道路でした。現在、牧之原を東西に横切っている国道1号線が、権蔵の建設した中山新道です。その面影は「中山新道の道銭場跡」として金谷町佐夜鹿の私邸内に残され、高札形の明治13年の料金表が掲げられてます。

 

杉本権蔵

 文政2年(1829)金谷宿に生まれた人で、金谷の旧家桜井家で育ちました。明治維新のとき川越え人足70余名を引き連れ、明治3年権蔵41歳の時、茶園開墾のため牧之原に入植します。牧之原開墾には旧幕臣が有名ですが、大井川架橋により職を失った川越え人足たちの功績は大きいものでした。気の荒い人足たちを引き連れて苦難の開墾活動をすすめることができたのは、杉本権蔵の剛気な人柄あってのことと思われます。

 

参考文献 『遠州の史話』神谷昌志著 静岡新聞社
  『榛原町の地名』榛原町教育委員会

官牧のなごり「牧之原」

 

 

地名のもくじ 第1回 第2回 第3回 第4回『牧之原・御林』 第5回 第6回  

 

お気軽にご意見ご感想をお寄せください。

お茶街道文化会
主催:カワサキ機工株式会社