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地名のお話

第8回 日坂と坂の地名

金谷から掛川の東海道には小夜の中山という峠があり、古来から街道の難所として知られていました。「さか」とは、道がそり返っているさまをさした言葉で、古来「坂」は坂道ではなく峠のことをあらわしました。やがて現在のように傾斜道を「坂」と表現するようになり、峠や大井川を越える旅人の経路も時代によって移り変わって、この地には数多く「坂」の呼称が残されています。

1.小夜の中山周辺の坂

「日坂」安藤広重

西坂・新坂・日坂(にっさか)
箱根とならぶ東海道の難所、小夜の中山の西側に位置する宿場を「日坂(ニッサカ)宿」とよび、東海道で二番目に小さな宿場でした。『掛川志稿』には、日坂の地名について次のように記されています。

日坂は西坂なり、佐夜中山の西にあればなり、佐夜中山の東にあるを東坂と言う類なり、西と言ふ訓をなまりて日字を用ひしも古きことと見ゆ

「日坂」は、小夜の中山の西側に位置したことから、古くは「西坂」と呼ばれ、しだいに転訛して「日坂」と呼ばれるようになったとのこと。その時期も、次項に示すように、『宗長(そうちょう)手記』ではすでに日坂となっていますが、寛永二〇(1643)年の紀行には「西坂」とあることから、室町後期から戦国期にはすでに「日」の字を用いながら、西坂、日坂は混用されていたようです。「ニッ」音がつく地名は、「ニヒ(新)」の転じた場合が多く、「 ニシサカ→ニヒサカ→ニッサカ」と変化していったと思われます。

歴史書物にみる日坂
日坂(西坂)の地名は、『経覚私要鈔』応仁2年条、京都〜鎌倉の宿次第が示す懸河宿の次に「西坂」とあるのが初見です。ついで、『宗長手記』の大永6年2月21日条に「廿一日、山をこゆ‥‥きく河といふ河も、此山の中なり‥‥此山なかばこえて、日坂といふ」とあり、この頃には「日坂」に転じていたことがわかります。また、同じく連歌師柴屋軒宗長が記した『東国紀行』にも、金谷から小夜の中山を越えて掛川に至る途中当地を通過したときのことが残されています。そこには、「佐夜の中山も近し、日坂という茶屋にやすみて」とあり、『言継卿記』にも山科言継が日坂を通過したことが記されています。小夜の中山が連歌の枕詞に詠まれていることから、当時の文化人たちが記した旅行記に日坂が多く登場することになったと思われますが、交通面でも、日坂宿は旅の難所をひかえた宿場として、江戸以前から機能していたことがこれらの記録からうかがわれます。

東海道の経路と坂

金谷坂・菊川坂・東坂(箭置坂)

小夜の中山峠とは、金谷宿から金谷坂、菊川坂、東坂、小夜の中山をへて日坂宿に至る一里二十四町の道のりをいいます。金谷坂、菊川坂は、それぞれの宿場の名から坂の名に呼ばれたものです。東坂は西坂と同様、峠の東側に位置することから「東坂」と呼ばれたと思われますが、青木坂または箭置坂(やおきさか)とも呼ばれます。「箭置」は、この付近にある「御箭くぼ」からの当て字でしょうか。 現在は、小夜の中山菊川側の入口、四郡橋の先に一部石畳が再現され、「青木坂」の標が置かれています。

金谷坂と菊川坂は、傾斜が急なうえに「青ねば」といわれる粘土質の土で、雨が降るとぬかるんで旅人泣かせの坂でした。文政年間(1818〜1829)に行われた整備で、金谷坂から菊川坂にかけて石畳を敷く道普請が行われました。この石畳も時が経つにつれて消えてしまいましたが、金谷坂は、平成3年に石畳の普請が行われ、当時の街道が再現されています。

[古今旅集]金谷の石畳へ


2.坂の通称
昔、大井川の広い川幅を避けて上流を渡ったため、東海道は大井川付近で北上しています。菊川から牧之原・金谷へ抜ける道は、周辺集落の生活道であり、また、戦乱期に敵を避けて通る道ともなりました。表向きは「権現様」と崇められた家康も、遠江の合戦での苦戦は、村人たちの間で少しユーモラスに伝えられてしまいました。 また、長篇の昔話として伝えられる「やいばの雉子」から、 土地の後日談が坂の名に残されたものもあり、通称地名から歴史を垣間見ることができます。

徳川家康画像( 徳川黎明会蔵)

へっぴり坂
菊川の六郷小学校の前を南へ300mほど行ったところを左に折れて、半済の池ノ谷から神尾に越す坂を地元の人から「へっぴり坂」と呼ばれていました。現在では切り通して道幅が広くなりましたが、昔は荷車も通れないような狭い道であったそうです。この坂の名は、昔徳川家康が戦いに敗れ、敵に追われてこの坂を越える時、「セツナ屁」を放ったのでこう呼ぶようになったと伝えられています。また、一説には「兵放ち坂」が訛ってこの名になったともいいます。

ハン坂
菊川の神尾から牧之原の棚草に登る急な坂道があります。この坂は、徳川家康が「へっぴり坂」から神尾に入り、さらに牧之原方面へと逃げるのに疲れて「這って登った」ところから「這い坂」が訛って「ハン坂」となったそうです。

盗人坂(ぬすっとざか)
潮海寺(小笠郡菊川町)の東南、矢田部との境近くに、掛下というところがあります。その東側には菊川が流れ、台地から下に向かって坂道になっており、ここを俗に「盗人坂」と呼びます。 弘安(1278-1287)の頃、小夜の中山あたりに出没したという「やいばの雉子(蛇身鳥)」を退治するため、京から差し向けられた落合権守の従者に進士清蔵という強弓の達人がいました。しかし、ついにやいばの雉子を退治できず、替わりに来た一条三位上杉憲藤が征伐したため、いまさら京へ帰ることもできずにこの地に土着していました。あるとき、この地方に盗賊が入り、あちこちで盗みを働きました。この時清蔵は、潮海寺の坂を逃げてゆく賊の姿を見て、富田川の川原から矢を射ったところ、みごと賊の足に当たって捕らえることができたそうです。以来、この坂を「盗人坂」と呼ぶようになったといわれています。

 

参考文献 『掛川志稿』
 
『地名の由来を知る辞典』武光誠著東京堂出版
  『東海道小夜の中山』中部建設協会
  『掛川市史−中』掛川市史編纂委員会
 
『菊川むかし話』鈴木則夫著
*画像提供 『東海道小夜の中山』中部建設協会

 

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