You are here: TOPPAGE> 歴史探訪案内> 地名のお話> 第7回水にちなんだ地名-1『川名の由来』 |
地名のお話
第7回 水にちなんだ地名-1
川名の由来 「大井川」「菊川」「掛川(逆川)」
地名の由来は、その地形や自然条件、史実や産業、伝説や信仰など、その根拠はいくつかに分類されます。お茶街道では、島田宿と金谷宿の間を流れる大井川が、最も特徴的な自然条件といえます。水源である川は、人々の生活において最も大切な場所であり、また水害などの危険も孕んだところでした。今回は水に関連する地名についてご紹介しましょう。
大井川 (おおいがわ) 『東海道名所記』に、 駿河と遠江の境なり。又あの世、此の世のさかひをも見るほどの大河なり。 菊川 (きくがわ) 大井川の東側を流れる「菊川」。現在の 榛原郡金谷町菊川の地名と川名にその名があります。この地名も前述の掛川と同様『吾妻鏡』承久三・1181年に遠江國菊河駅とあるのが初見です。関東に連行される藤原宗行が、この地の宿の柱に「昔南陽県菊水、汲下流而延齢、今東海道菊河、宿西岸而失命」と書き残しました。その百年後の元弘元(1331)年に、日野俊基が同じ虜囚となってここを通る途中「古もかかるためしを菊川の同じ流れに身をや沈めん」と詠んだ『太平記』などがあります。 懸河(掛川・かけがわ)のちに逆川(さかがわ) 東海道品川宿から26宿目の宿場町「掛川」は、むかしの遠江国小笠郡掛川町。「掛川」の地名は『吾妻鏡』(養和元・1181年)に「養和二(1182)年五月十一日、伏見冠者藤原廣綱、日来住遠江國懸河邉トミヘシヲ始トシテ 」とあるのが初見で、源頼朝に仕えることになった藤原広綱が当時懸川に居住していたと記しています。 時代は下り、『掛川志稿』には、二項にわたって懸川の地名について記されています。
[懸河舊(キュウ)趾の項より]
とあり、「懸河」の地名は古くから使われていて、その詳しい由縁は定かではないとしながらも、
とあります。掛川の地名は川に由来し、曲がりくねった逆川に懸崖が多いという地勢をあらわしたもので、崖川、欠川と呼ばれたことから起こった地名であろうと伝えています。
また、 掛川城築城の際に、川の流れを移していて、『吾妻鏡(東鑑)』嘉禎四年の條に「懸河河邉 」とあるのは、今の大池村の西宿の河邉のことで、二瀬川という所のことであるとも述べています。
|
*参考文献 『掛川志稿』 『地名』丹羽基二著発行秋田書店『東海道小夜の中山』中部建設協会 『十九首塚ご案内』掛川市文化財保存会 十九首塚保存会*画像提供 『東海道小夜の中山』中部建設協会
地名のもくじ |第1回 |第2回 |第3回 |第4回 |第5回 |第6回|第7回-1水にちなんだ地名「川の名」 | |
お気軽にご意見ご感想をお寄せください。
お茶街道文化会
主催:カワサキ機工株式会社