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地名のお話

第7回 水にちなんだ地名-1
川名の由来 「大井川」「菊川」「掛川
(逆川)

 地名の由来は、その地形や自然条件、史実や産業、伝説や信仰など、その根拠はいくつかに分類されます。お茶街道では、島田宿と金谷宿の間を流れる大井川が、最も特徴的な自然条件といえます。水源である川は、人々の生活において最も大切な場所であり、また水害などの危険も孕んだところでした。今回は水に関連する地名についてご紹介しましょう。

安藤広重「金谷」

大井川 (おおいがわ)

『東海道名所記』に、

駿河と遠江の境なり。又あの世、此の世のさかひをも見るほどの大河なり。

とあるほどで、「越すに越されぬ大井川」と歌われた大きな川。江戸時代になると幕府が架橋と渡し船を禁じ、旅人ばかりでなく地元の人々も容易に渡れない川であったことから「関所川」の異名をもっていました。
大井川の古名は大堰川で、上流を井川、下流を大井川と呼んでいました。井とは、水の集まるところをさし、「大井川」には、水を集めて流れる大きな川という意味があり、イの字には古くは「堰・猪」をあてました。
大井川は、その大きさゆえ地形的政治的に境界の役割を果たしていたことから、文学上にも多用されています。代表的なところでは平安時代の作、菅原孝標女著『更級日記』(治安元・1021)に「大井川という渡あり、水の世の常ならず、すり粉などを、濃くて流したらむやうに、白き水、早く流れたり」と書かれるなど、様々な文学で大井川の様子が巧みに表現されています。

菊川 (きくがわ)

大井川の東側を流れる「菊川」。現在の 榛原郡金谷町菊川の地名と川名にその名があります。この地名も前述の掛川と同様『吾妻鏡』承久三・1181年に遠江國菊河駅とあるのが初見です。関東に連行される藤原宗行が、この地の宿の柱に「昔南陽県菊水、汲下流而延齢、今東海道菊河、宿西岸而失命」と書き残しました。その百年後の元弘元(1331)年に、日野俊基が同じ虜囚となってここを通る途中「古もかかるためしを菊川の同じ流れに身をや沈めん」と詠んだ『太平記』などがあります。
地名については、台地にあって水が伏流しやすく、「ククカハ(漏川)」の意とみられるという説。また、上流にあたる小夜の中山の菊石、菊川町友田の菊目石に因んだ名か−との説。 そして、古く城飼郡(きこうのこおり)の音「キコウ川」から菊川に転じたとの説など、その由来にはいくつかの説があります。

懸河(掛川・かけがわ)のちに逆川(さかがわ)

東海道品川宿から26宿目の宿場町「掛川」は、むかしの遠江国小笠郡掛川町。「掛川」の地名は『吾妻鏡』(養和元・1181年)に「養和二(1182)年五月十一日、伏見冠者藤原廣綱、日来住遠江國懸河邉トミヘシヲ始トシテ 」とあるのが初見で、源頼朝に仕えることになった藤原広綱が当時懸川に居住していたと記しています。

時代は下り、『掛川志稿』には、二項にわたって懸川の地名について記されています。

[掛川駅の項より]
東鑑ニ懸河ト云ハ、城外ノ川ニ属セシ名ニテ、皆此處ニ係レル稱呼ナルヘシ(中略)

東鑑ニ、嘉禎四(1238)年二月六日、左京兆於懸河宿、到于河邉、著座敷皮トアリシハ、此西宿ノ西ナル河邉ヲサシタルモノニニタリ(云々)

[懸河舊(キュウ)趾の項より]

松尾曲輪ノ内池東ノ低處数十歩ノ間ヲ懸河ト呼フ、城主代々相傅ヘテ傍示ヲ立ツ、其故ハ詳ナラネト、國初以来アリシモノト見ヘテ元和九年ノ古圖(こず)ニモ見ヘタリ

とあり、「懸河」の地名は古くから使われていて、その詳しい由縁は定かではないとしながらも、

是ニ因テ今其地勢ヲ考ルニ、池ノ北岸都テ懸崖ニシテ、其懸河ト云所ト川トノ間ニ路モアレト、其間甚遠カラス、恐ラクハ昔築城ノ前ニハ、川流ノ迫リシ所ニシテ、深淵ナリシ故、天險ヲ恃ンタメ其口ヲ塞テ、川ヲ南ニ移シ易ヘ、其趾を要害ノ大池トナシタルモノナラン

とあります。掛川の地名は川に由来し、曲がりくねった逆川に懸崖が多いという地勢をあらわしたもので、崖川、欠川と呼ばれたことから起こった地名であろうと伝えています。 また、 掛川城築城の際に、川の流れを移していて、『吾妻鏡(東鑑)』嘉禎四年の條に「懸河河邉 」とあるのは、今の大池村の西宿の河邉のことで、二瀬川という所のことであるとも述べています。
この掛川が変わって呼ばれるようになった逆川は、逆流による「サカサ川」または「坂」「サカシ(険し)」から生まれた地名か−といわれています。また、『掛川志稿』に川趾を大池として外敵にそなえたとありますが、後に大池は灌漑用水として利用されており、水は倉真川から引かれました。この「大池」という地名は、今の掛川市大池(旧大池村)で、町村合併後の現在も使われています。

※注:十九首塚保存会(十九首町)の案内によれば、藤原秀郷一行が将門以下十八名の首実験のため小川で首級を洗い、川辺の東光寺の所の橋に首を掛けたので「懸川」となったとの説があるという。

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金谷河原と志戸呂

参考文献 『掛川志稿』
 
『地名』丹羽基二著発行秋田書店
  『東海道小夜の中山』中部建設協会
  『十九首塚ご案内』掛川市文化財保存会
 
十九首塚保存会
*画像提供 『東海道小夜の中山』中部建設協会

 

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