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地名のお話
第7回 水にちなんだ地名-2
「河原(かわら)」「志戸呂(しとろ)」
金谷河原 金谷宿は、金谷町と河原町に分かれていて、河原町は川越役と歩行役を勤め、金谷宿は主に伝馬役を勤めていました。河原町は、安土桃山時代の天正の瀬直し(1590)で開拓された土地で、江戸時代前は大井川の河原であった場所ですから、江戸以降の地名です。山内一豊による大井川志戸呂堤の築造を契機に開発が進み、はじめは金谷宿の枝村で金谷新田と称しましたが、慶長八(1603)年に河原町と改称(金谷町誌稿)。のちに金谷を冠して現在は「金谷河原」という地名です。 志戸呂 現在金谷町にある志戸呂は、大井川支流大代川中流沿岸に位置し、「質侶」とも書きました。平安期『和名抄』に遠江國榛原郡九郷のひとつとして登場し、のち大治四(1129)年三月の『遠江國質侶荘立券文案』(東大寺図書館本宗性筆識論第5巻問答抄紙背/平遺2129)によると、質侶郷というところが質侶荘に含まれたとあります。荘園は豪族の私領として管理統治された土地で、同資料によると荘内は質侶郷、湯日郷、大楊郷の三郷からなり、うち大楊郷は大井川の氾濫で停廃して年貢未済とされています。 また、『掛川志稿』巻十一志戸呂村の項には 牧野原村ノ東北金谷駅ノ北ニアリ、古ヘ志戸呂郷アリ、此村ノ名ヲ以テ郷名トス(中略)名義考ル所無シ とあり、地名の由来については明らかにされていません。 金谷町の「シトロ」と 同音異名の地名が浜松にもあります。浜松の「志都呂」は旧敷智郡志都呂町。江戸時代初期には今切関所(新居関所)奉行の役屋敷があり、中期から後期にかけては陣屋が構えられた村の要所でした。浜松の志都呂も浜名湖に注ぐ新川右岸に位置し、金谷町の志戸呂同様、川に関係した地勢にある土地といえます。また、この「トロ」の音は、瀞(とろ)、泥(どろ)に通じ、泥田あるいは湿地帯を意味する地名といわれ、川辺の湿地であったことから「シトロ」と呼ばれたとの説もあります。 志戸呂には、500年前に瀬戸離散により移住してきた陶工が窯を起こしたといわれる「志戸呂焼」があり、江戸時代に献上茶を入れる茶壺を生産したことから手厚く保護されていました。時を経てその数は減りましたが、現在でも4件ほどの陶工が創作をつづけています。 |
*参考文献 『掛川志稿』 『日本地名大辞典22静岡県』角川書店『東海道小夜の中山』中部建設協会 『町名の由来』静岡新聞社発行 飯塚伝太郎、川崎文昭、神谷昌志、辻真澄著*画像提供 『東海道小夜の中山』中部建設協会
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