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東海道の歴史−古代から中世−
古代のシステムから見る遠江
古代の人がどのような交流をしていたのか、発掘された遺跡や残された書物、文書からさまざまな研究者が説を唱えています。ここでは、お茶街道の金谷〜掛川について、諸説からその姿をさぐってみましょう。
東海道が西と東を結ぶ道として、重要な役割を果たすようになるのは、大和政権が東方への政治的影響力を及ぼし始めた四、五世紀ごろのことといわれます。東海道の歴史において、はじめて遠江のことが出てくるのは、『続日本紀』『三代実録』『続日本後記』などで駅の選定、廃止についての記事がみられる程度で、全体像がわかるものは『延喜式』(905年編纂開始、927年完成、施行967年。平安中期)に記された駅馬、伝馬の記載です。遠江国
駅馬 猪鼻・栗原・□摩・横尾・初倉、各十疋 (□=伊・引・門?) 伝馬 浜名・敷智・磐田・佐野・榛原郡、各五疋
墨書土器 遠江国の駅馬が、どのあたりに位置するのか、説はいろいろあるようですが、現在のところ以下の駅家説があります。 猪鼻=新居町浜名周辺(他に三ヶ日説、吉美説、伊場説がある) 『更級日記』に「それよりかみは ゐのはなのさか…」と書かれています。 栗原=浜松市伊場 伊場遺跡から発掘された墨書土器『栗原駅長』とあり、その北隣梶子北遺跡にある横長式の建物を馬屋であるとする説もあります。
□摩=磐田市今ノ浦付近 引摩、門摩との記録がありますが、これらは誤記とされ、今ノ浦のイマをあてて見附付近との説が有力なようです。 横尾=掛川市掛川城公園東側 『掛川誌稿』では掛川城付近にあったとしていますが、他に掛川市街北側西郷付近との説もあります。 初倉=牧之原台地東端(島田市宮上遺跡) 島田市宮上遺跡からは「驛」らしき墨書土器が出土し、この遺跡を駅家とみています。(注1) これは、『延喜式』によって、それまでの制度を拡充整備したと見るべきもので、「屋椋帳」と呼ばれる大法令以前(持統朝あるいは天武朝?)のものらしき木簡(伊場遺跡出土)に「駅」の文字が見られることから、駅制については、大法令以前から「駅評(うまやのこおり)」を中継ぎとした東海道の前身といえる交通網が整備されていたという説があります。(注2)
古代〜中世東海道の経路
平安以前の東海道の経路については、文献にはほとんど残されていないため推定ですが、時代とともに変わっています。『東海道小夜の中山』をもとに、その経路について記します。
9〜10世紀代の駅路と伝路 (参考:「東海道小夜の中山」中部建設協会)
馬道 (榛原郡金谷町猪土居〜島田市吹木・湯日・色尾)
奈良時代の古道で菊川から初倉の駅家郷へ抜ける道。 菊坂−ヘソ茶屋−吹木−上湯日−湯日−色尾 と、牧之原台地の中腹をぬうコースで、一部当時の面影が残されています。土地の人はこの道のことを「馬道」と呼ぶそうです。 色尾(いろお)道 (榛原郡金谷町猪土居〜島田市谷口原・色尾) 平安時代には拓けた道で、菊川から初倉へぬける牧之原台地上の道。 菊坂−ヘソ茶屋−二軒屋原(駒場?)−鎧塚−権言原−谷口原−坂本・色尾 平安から鎌倉時代に利用されたと思われます。
鎧塚道(道灌道路)
上記の色尾道で通る鎧塚(よろいづか)以東の道は時代をおって変遷し、色尾道ルートが使われたのち前島へ抜ける道がごく短期間利用され、のちに島田へ直接抜けるコースが室町中期以降に始まります。この古道は残っていないため不明ですが、二軒屋原から鎧塚への道に「道灌沢」という地名が残されています。 このころの東海道を利用できたのは、原則として公用の役人に限られていて、物見遊山の観光旅行は考えらないことでした。中央へ納める税(調・庸)を運ぶにも東海道の利用は認められなかったそうです。
注1:『静岡県史 資料編3 考古三』1992より 注2:『静岡県歴史の道 東海道』 静岡県教育委員会 総説・ 古代駿河遠江両国の東海道より
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