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東海道の歴史−江戸庶民の東海道−

庶民の旅はじまる

慶長六(1601)年に整備がはじまった東海道は、徳川政権の安定によってしだいに軍事的役割の色が薄れ、17世紀を通じて東海道筋の治安は極めてよくなりました。庶民の生活にはゆとりが生まれ、元禄八年には大量の金銀貨が発行されて庶民の間にも通用するようになり、第一次東海道ブームが起こります。領主や主人の許可を得れば、時間があって金銭さえ持てれば、誰でも安全な旅を保証される時代が到来したのです。
一般の人々が旅に出かけようとするとき、「遊びに行く」では主人の許可がおりませんから、ほとんどが社寺参詣という宗教行為を旅の名目にしました。許されない場合は「抜け参り」と称して無断で旅に出ましたが、目的が参詣であるために帰ってから思い罰を受けることはなく、元の仕事に戻ることができました。さらに、東海道筋の人々も「抜け参り」の旅人に路銭を与えたり、食べ物を供したりして旅を支援しましたから、庶民の旅は社会のシステム上でも恵まれていたといえます。


『東海道中膝栗毛』
出版物の影響

東海道を旅した各時代の文化人たちは、遠い国の景色や人々のようすを絵画や書物にしたためました。元禄八(1695)年、菱川師宣は『東海道分間絵図』で東海道の散りを紹介し、浮世絵で華やかな三都を描いた『道中記』という旅行案内所も出版され第一次東海道ブームの火付け役となりました。
十九世紀になると、享和二(1802)年、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の出版がきっかけで、爆発的な第二次東海道ブームが起こりました。弥次郎兵衛と喜多八という一介の庶民がおもしろおかしい伊勢参りの旅を描いたこの本は、人々に東海道の旅への憧れを強く印象づけたのです。


おかげ参り

「おかげ参り」とは、特定の年に伊勢神宮への参拝が爆発的に増える現象をいいます。子は親に、妻は夫に、奉行人は主人に断りなく、衣裳に趣向をこらして歌い踊りながら集団で参拝しました。とくに慶安三(1650)年、宝永二(1705)年、文政十三(1830)年 に全国規模で「おかげ参り」が流行。江戸時代の「おかげ参り」は、おおよそ60年周期で流行しましたが、文政十三年の「おかげ参り」には実に500万人近くが参宮に出かけたといいます。
この「おかげ参り」から3年後の天保四(1833)年、歌川広重の『宝永堂版・東海道五十三次』が出版されました。おかげ参りに出かけた人々は、この浮世絵を買い求めて旅の思い出を語り合ったのでしょう。


往来する人々

東海道筋には、参詣の旅に出かける庶民の他に、近江商人や富山の薬売りに代表される行商人、武士、旅僧、御師(おし)、旅芸人等々、実に多様な人々が往来しました。 旅人たちの往来によって口から口へと伝えられる情報は、各地の宿から助郷や人足を通じて村へと伝わるようになり、街道は常に新しい情報源の役割も果たしていました。

 

参考文献: 注2:『静岡県歴史の道 東海道』 静岡県教育委員会

 


 

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