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金谷宿
金谷宿の規模
金谷宿は、室町のころはちいさな宿場で、当時は菊川の方が栄えていたといいます。本格的に宿場として利用されるようになったのは、東に大井川、西に小夜の中山峠という難所をひかえて、江戸時代東海道五十三次の主要な宿駅のひとつとなってからでした。 金谷宿のようす
島田河原町から大井川を渡ると金谷宿の東側の金谷河原町。この金谷宿東側の入り口には、八軒屋橋という板橋がかかっていました。通常宿の入り口に左右一対置かれていた桝形が金谷宿には無く、橋がその役割をしていました。大井川の岸からこの橋までの街道の両側は一町五十間ほど松並木になっていて、橋を渡ると川会所(かわいしょ)、川越し人足の番宿、札場、高札場などが立ち並んでいました。 河原町から西へ向かって十五軒あたりから先が宿の中心街。本町には三軒の本陣と脇本陣、助郷会所があり、要人の宿泊など町の重要な役割を担っていました。街道の両わきには、これらの施設とともに五十一軒の旅籠が立ち並び、大井川を渡る旅人たちを迎えました。上本町には問屋場や町飛脚があり、人々は農業、旅籠屋、茶店、諸商人などを営んで暮らしていました。 現在の金谷宿
江戸時代は人足が渡した大井川ですが、現在東海道を歩くには大井川橋を渡ります。金谷側川沿いを100mほど上流へ進んで右側の下り坂を降りるとすぐに新堀川にかかる八軒屋橋があり、ここからが昔の金谷宿にあたる街並みで、現在は書店を営む佐塚屋本陣跡、農協前にある柏屋本陣跡、金谷の一里塚跡が宿場であったことを伝えています。 宿場を過ぎると急な上り坂となり、牧ノ原台地の中腹から金谷坂へと右折します。金谷坂は大きな木々に囲まれた風情のある石畳の坂道です。この石畳は、江戸時代に残された遺構に加えて町民によって整備されたもので、入口には石畳茶屋があります。金谷坂を菊川側の「金谷坂下り口」に抜けると、そこには日本一のお茶処牧ノ原台地の茶畑が広がっています。さらに300mほど進むと諏訪原城跡があり、その先は菊川坂へと続きます。
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