You are here: TOPPAGE 歴史探訪案内 街道の歴史 宿場のようす 金谷宿  

金谷宿

金谷宿の規模

東海道第24宿金谷宿
日本橋から207.3キロ
日坂宿まで一里二十四町
総家数:1004軒
本陣3,脇本陣1,旅籠屋51
宿全長:東西十六町二十四間
(天保14年大概帳)

 金谷宿は、室町のころはちいさな宿場で、当時は菊川の方が栄えていたといいます。本格的に宿場として利用されるようになったのは、東に大井川、西に小夜の中山峠という難所をひかえて、江戸時代東海道五十三次の主要な宿駅のひとつとなってからでした。
 金谷宿は、金谷本町と金谷河原町の二町にわかれていて、金谷本町が他の宿場と同じように伝馬役を務め、河原町が大井川の川越しを取り仕切る川越役・徒渉(かち/歩行)役目を担っていました。
 天保十四年の記録『東海道宿大概帳(だいがいちょう)』によると、金谷宿の全長は東西16町24間、宿内人口は4,271人、宿内家数は1,400軒でした。
 宿内には本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠51軒(他に木賃宿も)などの宿泊施設と、川合所などの川越し施設があり、宿場に常備しておかなければならない馬や人足の数は人足が155人5分、馬が100疋で、加えて水害にも苦しみ、これらは町の大きな負担となっていました。のちに川越しのための人足を確保するため、周辺の村々が助郷村に組み入れられました(元禄七年)。

金谷宿のようす

「金谷」歌川広重

 島田河原町から大井川を渡ると金谷宿の東側の金谷河原町。この金谷宿東側の入り口には、八軒屋橋という板橋がかかっていました。通常宿の入り口に左右一対置かれていた桝形が金谷宿には無く、橋がその役割をしていました。大井川の岸からこの橋までの街道の両側は一町五十間ほど松並木になっていて、橋を渡ると川会所(かわいしょ)、川越し人足の番宿、札場、高札場などが立ち並んでいました。

 河原町から西へ向かって十五軒あたりから先が宿の中心街。本町には三軒の本陣と脇本陣、助郷会所があり、要人の宿泊など町の重要な役割を担っていました。街道の両わきには、これらの施設とともに五十一軒の旅籠が立ち並び、大井川を渡る旅人たちを迎えました。上本町には問屋場や町飛脚があり、人々は農業、旅籠屋、茶店、諸商人などを営んで暮らしていました。
 新町に入り長光寺(ちょうこうじ)の門前を抜けると、金谷宿の西の入り口である土橋に出て、その西側には石畳が敷かれた金谷坂がひかえていました。途中右手には庚申堂があり、中腹まで登ると金谷の町が一望でき、さらに登ると富士山が見えます。金谷坂を登りきると左手から菊川の鎌倉街道につながり、右手には諏訪原城の森が広がっていました。

現在の金谷宿

金谷坂の石畳

江戸時代は人足が渡した大井川ですが、現在東海道を歩くには大井川橋を渡ります。金谷側川沿いを100mほど上流へ進んで右側の下り坂を降りるとすぐに新堀川にかかる八軒屋橋があり、ここからが昔の金谷宿にあたる街並みで、現在は書店を営む佐塚屋本陣跡、農協前にある柏屋本陣跡、金谷の一里塚跡が宿場であったことを伝えています。

宿場を過ぎると急な上り坂となり、牧ノ原台地の中腹から金谷坂へと右折します。金谷坂は大きな木々に囲まれた風情のある石畳の坂道です。この石畳は、江戸時代に残された遺構に加えて町民によって整備されたもので、入口には石畳茶屋があります。金谷坂を菊川側の「金谷坂下り口」に抜けると、そこには日本一のお茶処牧ノ原台地の茶畑が広がっています。さらに300mほど進むと諏訪原城跡があり、その先は菊川坂へと続きます。

東海道の旅>金谷宿へ

*参考文献: 『静岡県歴史の道 東海道』静岡県教育委員会
  『東海道小夜の中山』中部建設協会
*画像提供: 東海道広重美術館


 

金谷宿 日坂宿 掛川宿  

 

お気軽にご意見ご感想をお寄せください。

お茶街道文化会
主催:カワサキ機工株式会社