You are here: TOPPAGE 歴史探訪案内 昔ばなし 第16回 十九首の首塚さま 大平将門と怨霊伝説  

[第15回 解説-1]   
平将門と怨霊伝説

 平将門といえば、祟りや怨念の話を思い浮かべる。現代日本の中心地である千代田区に至っても、将門公の祟り話しが伝えられるほどで、千代田区大手町にある将門の首塚が、京都から飛んできた将門の首を祭ったところである−という言い伝えが一般的であろう。
 
神田明神
 
   
そして、将門の霊を祀った神社が神田明神である(昔は大手町付近に位置したという)。
 では、なぜ掛川に首塚なのか。残念ながら記録がないため、この十九首塚が将門の塚で あるという定かな証拠はない。ただ、昭和31年、塚保存のために、五輪塔建立にあたって塚の一部を掘り返した際、長さ20センチの「刀子(とうす)」と呼ばれる小刀と、手のひら大の土器片が出土し、1200年位前のものと鑑定された。この塚の時代を示資料は他になく、塚の主について確かなことはわからない。

 


十九首塚伝説の形成

 将門は、平良持(たいらよしもち)の子で、京に上り摂政藤原忠平に臣従して検非違使(けんびいし・警察等)就任を希望したが受け入れられず、関東に帰って悶々とした日を送る。時が熟すのは承平5年(935)、平氏一族の内紛を契機に将門は関東武士の信望をあつめ、常陸、下野(しもつけ)、上野(こうづけ)、武蔵、相模など関東一円を占拠し、自ら新皇と称して公然と国に背くようになったという。
 しかし、反逆者であるはずの将門は、その討伐直後からすでに英雄視されていたようだ。将門に関する歴史的記述は『将門記(しょうもんき)』しかなく作者は不明だが、天慶3年6月脱稿とあり、乱の直後に書かれたものである。『将門記』からは、前編にわたって将門が英雄的存在であったことが伺われ、少なくとも初期伝承から将門が英雄視されていたことがわかる。そして、江戸時代になると将門を祀る神社は徳川家に養護され、大正時代になっても庁舎を移転させるほどの影響力をもち、今に至るまでその伝説を形成しつづけてきた。
 この十九首塚伝説は、いくさ語りの民間伝承と戦死者供養の民間信仰を、村人が代々口伝したものと見受けられるが、将門の怨霊は登場しない。どちらかといえば、秀郷の武将魂を讃えた話のようにも見える。渡邊昭五氏によると、秀郷が英雄視されたのは中世以降のことで、藤原秀郷の鬼退治や百足退治の伝説が伝えられ、さらに彼の子孫によって『俵藤田物語』(*)などの絵巻に語られて武勇話が誇示されるようになったというから、それ以降の伝承なのかもしれない。

*俵藤太=藤原秀郷

 

将門と七つの魂

 将門の本拠地は、現在の千葉県成田山だった。そのため、成田山周辺の集落や将門神社がある栃木群馬など、北関東を中心に広範囲にわたって将門伝説が伝えられている。
 将門伝説には「七つ」が多く出てくる。千葉県木間ヶ瀬村や飯塚村の七本桜、七影武者の土人形をつくってお供えするお祭り(同地)、千葉県亥鼻城跡の七ツ塚(七天王塚)、東京都奥多摩の七ツ石山など、すべて将門の影武者や妖術の伝説が伝えられている。その中でも興味深いのは、秀郷が将門を討ちとったとき、刀傷から七つの魂が飛び散り、各地へ飛来したという言い伝えである。江戸時代になって、これを芝居仕立てに脚色し読み物にしたのが、

 
 
将門秀郷 時代世話二挺鼓

山東京伝の黄表紙『時代世話二挺鼓』だろう。将門が、妖術を使って七つの分身を見せ、対抗して秀郷が覗鏡で八重の姿を見せるなどの見せ場が描かれており、そのクライマックス、将門が斬られるシーンでは、打ち落とされた将門の首から七つの魂が飛び散る。七は将門伝説以前から妙見に伝わる数字であったことから、秩父妙見宮と将門伝説の関係を説く書物もあり興味深い。
 この十九首塚隣の東光寺には、成田山不動堂のほこらがある。これは明治10年に将門縁りの東光寺が、本山の心勝寺より不動明王の霊を移して祭ったもので、大正時代に遠州で唯一の遙拝所として認可された。



参考文献 『ふるさとの史跡1キロハイク』掛川市歴史教室
  『『怨念の将門』神山弘著 エンタプライズ(株)出版
  『日本伝説大系 第四巻』共著の内渡邊昭五著部分(株)みずうみ書房出版
  『平家物語』解説 市古貞次校注訳(株)小学館
画像提供 神田明神

 

昔ばなしのもくじ 十九首の首塚さま 平将門と怨霊伝説 将門縁りの宝物と十九首町  

 

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