今からおよそ千年も昔のおはなし。
相馬大太郎将門は、下総の国(今の千葉県)に本拠を構えて、勢力を増していました。 その力は関東八州におよぶ勢いです。将門は、朝廷に逆らって、屋敷を御殿のように造り、周りの人にも「平親王」と呼ばせて、日本中を自分のものにしようとしていました。
そのことは朝廷にも伝わり、朝廷は諸国の強い武士を集め、将門討伐軍を結成しました。
大将は藤原秀郷と平貞盛です。討伐軍は、すぐさま将門のもとに向かいました。 都では、実朝大僧正という方にお願いして、高尾山の弘法大師手彫りの不動明王に、21日の間討伐軍の勝利をお祈りをしました。
ついに満願かなって天慶3年2月14日、将門は滅ぼされました。天慶の乱です。
大将の秀郷は、将門の首級と念持仏の薬師如来、相馬家代々の家宝をそろえて京に上ることになり、 歩を重ねて、掛川の里まで来ました。 一方、朝廷から命を受けた検視役が西から下っており、掛川の里で出会いました。
秀郷は、ここを流れる清流で将門たちの首を洗って橋にかけ、検視を受けました。 朝廷の使者は、検視が済むと首を捨てるよう命じましたが、 秀郷は、
「たとえ朝廷にそむいた者といえども、名門の武将の屍にむち打つことはしのびない」
と言い、 将門一門の十九の首を別々に埋葬して、ていねいに供養したということです。 天慶3年8月15日のことでした。
この首実験のあと、検視役の使者は、将門のつるぎ、黒白二双の犬の掛軸、 念仏仏の薬師如来他の宝物を、東光寺の草庵に収めて帰りましたが、 のちに神社に移し、この神社を十九首権現、十九首八幡と改めました。
この八幡様や宝物には、数々の言い伝えや不思議話が残されていて、 今でも命日である8月15日にはお祭りがあります。
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