You are here: TOPPAGE 歴史探訪案内 昔ばなし 第16回 十九首の首塚さま 将門縁りの宝物と十九首町  

[第15回 解説-2]   
将門縁りの宝物と十九首町

将門縁りの宝物−犬の掛軸

 掛川には、今でも将門縁りの宝物が残されているという。掛川での首実験の後、将門の剣、黒白二双の犬の掛軸、念持仏の薬師如来他の宝物を、東光寺の草庵に収めて使者は帰ったが、後に神社へ移した。その神社を十九首八幡と改め、朱印75石を賜わった。しかし、この神社が出水のたびに神殿が汚れるので、宝永3年(1707)に、大池上屋敷二つ池の大池八幡宮(海洋センター前・池辺神社)に移された。
 この宝物のひとつ、二双犬の掛軸はには不思議ないわれがある。
 『遠江古蹟図絵』によると、江戸初期の寛永年間(1624〜1643)、十九首の東光寺で御開帳が行われ、平将門念持仏と一緒にこの絵も公開したとき盗賊が絵を盗み、江戸へ出て売り先を探したところ、旗本の宝来喜太郎のもとにおさまったが、たちまち気が変になり、霊がのりうつって「この絵を八幡宮へ返せ…」と口走るようになった。これを聞いた家族が、もとの宮におさめた−と記されている。 この犬の絵は、将門誕生のお七夜祝に飾られたとされ、『図絵』に記されているように、何回盗まれても売られても、必ず大池八幡神社の神主のもとに帰ってくると伝えられている。しかし、『図絵』の著者兵藤庄右衛門は、宝物の虫干しのときにこの犬の絵を見たが、画風や紙質からとても将門の時代まで遡るものとは思えない、したがって、将門の子孫かその関係者が供奉のために絵師に描かせ、神社に奉納したものではないか・・・と書いている。
 この大池八幡宮の社名は時代によって変わっており、元禄3年(1690)の文書には「天王八幡」とあり、江戸後期には「牛頭天王八幡」と呼ばれていた。大池八幡の名は、大池に鎮座している八幡社という通称と考えられ、「牛頭天王八幡」の社名が現在の「池辺神社」に改められたのは、明治4年のことだという。この宮のご神体は、将門の信仰していた『鼻取薬師』で、牛がお供をしており、信仰すると「キツネつき」が治るといわれている。

首塚と十九首町

 この伝え話によると、藤原秀郷は、掛川の宿で将門ら十九名の首実験のあと、その首を捨てるように命じられた理由は、京都に将門の怨念を持ち帰ることを嫌った朝廷の恐れからとされている。京との忌み嫌う首を置いていかれる村にしてみれば、懇ろに供養せざるをえなかったであろう。

 
十九首塚

この伝説の特徴的なところは、藤原秀郷が美しく描かれている点である。後世の芝居や書物では、秀郷は桔梗姫をだまして、将門の弱点を聞き出したとされ、老獪な武士というのが、一般的な秀郷(俵藤田ともよばれたという)のイメージだが、十九首塚の伝説では、敵方の武将に心ある武士の態度として語られている。
 この事件のことは、文書として残されていないが、当地の地名に残されている。この塚がある十九首町は、地元の人からは「ジュウクショ」と呼ばれ、正式な町名としても使われている。検視を行った川は、現在の東光寺南側を流れる下俣川という小川の清流で首を洗ったといわれ、通称「血洗川」「どんどろ川」と呼ばれた。そして、川辺の東光寺の所に橋をかけて首実験を行い、塚に埋葬したという。川のところで首を懸けたため「懸川」という地名になったとする説もある。当時は十九ケ所あった塚も、時代を経て数が減り、現在では将門のものと思われる大きな塚がひとつ残されるのみである。

[供養された武将]
相馬小太郎将門、鷲沼庄司光則、武藤五郎貞世、御厨別当多治経明、大葦原四郎将平、鷲沼太郎光武、堀江入道周金、御厨別当文屋好兼、大葦原五郎将為、隅田忠次直文、御厨三郎将頼、藤原玄茂、大葦原六郎将武、隅田九郎将貞、東三郎氏敦、藤原玄明、大須賀平内時茂、長橋七郎保時、坂上遂高

この塚があるのは掛川市十九首町で、掛川市街から0.5kmほど西側に位置する。塚は東光寺北側、十九首町公民館裏手にある。

 
   

町民は首塚を町の守り神として、春と秋の彼岸と8月15日の命日には今でも供養祭を続けているという。

 

参考文献 『平将門伝説の地 十九首塚ご案内』掛川市文化財保存会
 
十九首塚保存会
  『掛川の昔話』掛川市歴史教室
  『遠江古蹟図絵』神谷昌志著

 

昔ばなしのもくじ 十九首の首塚さま 平将門と怨霊伝説 将門縁りの宝物と十九首町  

 

お気軽にご意見ご感想をお寄せください。

お茶街道文化会
主催:カワサキ機工株式会社