You are here: TOPPAGE 歴史探訪案内 昔ばなし 第17回 おじいときつね 弘法坂について  

[第17回 解説-1]   
弘法坂について

とうふと時代

 かいさくじいさんは「牧之原のほうぼうへ行商をしていた」というから、売り先は一般庶民だったのだろう。そして、この話の時代を知る手がかりとなるのは「豆腐」。豆腐は古くは上流階級もしくは寺の精進料理として食されていた中国伝来の食べ物で、日本で一般的な食べ物として定着したのは16世紀以降であるという。江戸中期から後期にかけて京都(祇園)名物として広く知られるようになり、天明2年(1782)に『豆腐百珍』なる書物が京都で出版されて世に広まったというから、この話は、江戸後期、あるいは牧之原に開拓の人々が移り住んだ後の明治期の話と考えていいだろう。『金谷町史』によると、明治以前の金谷町の農民は、主に稲や麦を生産し、裏作や田の間などに野菜や豆、雑穀などをつくっていて、雑木林の荒れ地だったいわれる牧之原でも、南側の水利が比較的良いところには農民が居住し、耕作が行われていたらしい。想像であるが、かいさくじいさんは大豆を収穫し、あるいは近隣の農家から大豆を仕入れて、豆腐をつくって町へ売りに行き、細々と暮らしていた−という姿が浮かんでくる。

弘法坂の今

 この話の中でかいさくじいさんは、暗い道でとうふや油あげを盗まれるのをキツネの仕業と思っているだけで、とうとうキツネとは体面していない。その盗まれる場所が「弘法坂の大杉のあたり」で、伏見稲荷大社の神木は「験の杉(しるしのすぎ)」だから、稲荷信仰から得た「杉」のイメージも、かいさくじいさんに”キツネの仕業”と思わせるロケーションだったのだろう。また、キツネと油あげは付きもので、黄色はキツネの力を支える色といわれて小豆飯と共に稲荷神社に供えられるという稲荷信仰の風習も、キツネ登場の必然性を引き出している。


  さて、このキツネに化かされたという弘法坂は今でもあるが、大杉というのが字名なのか、それとも目印とされていた木があったのか定かでなく、今にいたってはどの地点をいうのかわからない。弘法坂は、金谷駅から東名牧之原IC方面に向かう国道437号線を東南へ進み、牧之原公園を越えたあたりを左側に曲がる道で、近隣はお茶畑が広がっている。今では農道として利用されており、当時のように暗い山道で見えないキツネと遭遇し、心通わせるというミステリアスな風景は残されていない。

 

参考文献 『ものと人間の文化史 狐』吉野裕子著 法政大学出版
 

『金谷町史』金谷町

  『全集 日本の食文化三』芳賀登・石川寛子監修 雄山閣出版
 
『幻想動物辞典』草野巧著 新紀元社
資料提供 地図:金谷町教育委員会

 

昔ばなしのもくじ おじいときつね 弘法坂について きつね昔話の背景  

 

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