You are here: TOPPAGE 歴史探訪案内 昔ばなし 第20回 せせらぎ長者 [解説1]日本左衛門という盗賊  

−せせらぎ長者解説−
日本左衛門という盗賊

錦絵
白波五人男日本駄衛門
日本芸術文化振興会蔵

この昔ばなしは、日本左衛門が捕らえられるに至った経緯と、狙われた長者の暮らし振りについて少々語られている。「せせらぎ長者」が、どのような長者かという詳しい説明はないが、妻の在所に頼んだことから、江戸奉行直々に捕らえるという大捕り物に発展したという話である。史実でも地元で捕えることができなかった責任を問われ、掛川城主小笠原長恭は福島県の棚倉へ転封(てんぽう)、相良藩本多忠如も福島県泉に移されるという大事件であった。

「せせらぎ長者」と歴史資料とで異なる点は、日本左衛門の本名の記述で、この話で友五郎となっているのは幼名であろうか。実際には本名を浜島庄兵衛といい、生まれは享保4年(1719)。父は尾張藩の七里役という下級武士で、父の赴任で金谷宿に同行したという。幼い頃は聡明な子どもだったが、17〜18歳の頃から飲む打つ買うの放蕩者となり20歳でとうとう勘当されてしまう。本格的に盗賊活動に入った時期は寛保元年(1741)、日本左衛門が23歳のときといわれ、遠州の豊田郡貴平村に本拠を構えて東海八ヶ国を荒しまわった。

『窓のすさみ』という書物によれば、率いる強盗の人数は「従う者五、六百」と記されており、大袈裟だとしてもその勢力の大きさを示している。また『甲子夜話』(肥前平戸藩主松浦静山著)には、 「この人、盗みせし初念は、不義にして富める者の財物は、盗み取るとも咎めなき理なれば、苦しからずと心に掟して、その人その家をはかりて、盗み入りしとぞ」とあり、日本左衛門は、「箱を砕いて包みから、難儀な者に施し」「盗みはすれど非道はせず」などの盗みの哲学を手下に説いている。また、寛保3年(1743)、駿府の夜の町で役人と斬り合いになったが、手下に命じて役人を縛り上げると、「役目がらとはいえ、命を捨てて闘うとは健気である」と大親分らしく悠然と姿を消したというエピソードも残されている。盗みに入るときには、周辺の家に見張りをたて、道筋には番人を配置して押し入り、支配者の異なる旗本知行地を転々と逃走するのが日本左衛門の手口であった。その姿も豪快で、指名手配されたときの人相書きによれば、 身の丈五尺八、九寸(身長175cm位)、年は29歳程、鼻筋が通って色白、面長、頭に5cmほどの傷があった。 また、自分からは手を下さず、黒皮の兜頭巾に薄金の面頬、黒羅紗、金筋入りの半纏(はんてん)に黒縮緬の小袖を着、黒繻子(しゅす)の小手、脛(すね)当てをつけ、銀造りの太刀を佩き、手には神棒という六尺余りの棒を持ち、腰に早縄をさげた出立ち というから、相当派手な強盗の親分である。芝居に登場するのも当然というところか。

参考文献 『東海道小夜の中山』中部建設協会
  『平成八年度 磐田市史完結記念公開講座資料集全五回』磐田市教育委員会
  『静岡人物誌』深澤渉著 静岡新聞社
  『松竹歌舞伎座筋書 平成七年一月』歌舞伎座
*画像 『東海道小夜の中山』中部建設協会

 

 

 

 

時代背景と義賊贔屓

 

 

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