You are here: TOPPAGE 歴史探訪案内 昔ばなし 第20回 せせらぎ長者 [解説2]時代背景と義賊贔屓  

−せせらぎ長者解説−
時代背景と義賊贔屓

この話「せせらぎ長者」に登場する妻の在所にあたる人物、つまり実際に日本左衛門逮捕を江戸へ直訴した人物は、駿河豊田郡大池村の庄屋宗右衛門である。宗右衛門は2度にわたって日本左衛門一味に襲われ、千両箱をいくつも盗まれた。宗右衛門は、日本左衛門の悪事を詳細に渡って調べあげ、延享3年(1746)8月、江戸の北町奉行所に訴状を提出した。

手配状
日本左衛門手配書控(袋井市可睡齋蔵)

江戸火付盗賊改めの徳山五兵衛に命が下り、同心22名を卒いて延享3年9月に江戸を発ち、地元捕り方の応援を得て、金谷、掛川、浜松に大捜査網を敷く。しかし、手下は捕まっても日本左衛門は一向に捕まらないため、全国へ人相書きを配布する。一方、日本左衛門は見附から美濃、大阪へと逃走、舟で安芸の国へ逃れるが、自分の手配書きを見、受け入れてくれる脈も無くなったことから逃げ切れないと決心して、京都町奉行所へ自首する。一部書物では、ここで「問われて名乗るもおこがましいが…」と大見栄を切ったとされている。 「知らざぁ言ってきかせやしょう…」は、歌舞伎『白浪五人男』弁天小僧の名せりふ。芝居中で大親分日本駄衛門は「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在、十四の年から親に放れ、身の生業も白浪の、沖を超えたる夜働き、盗みはすれども非道はせじ、人に情けを掛川から、金谷をかけて宿々で、義賊と噂高札に…」と大見栄を切る。

日本左衛門の墓
日本左衛門の墓(金谷の宅円庵)

日本左衛門が盗賊を働いていたのは八代将軍吉宗の時代で、幕府の窮状を救うため享保の改革が進められたころ。庶民は倹約と重税に息苦しい生活を余儀なくされていた。そこに日本左衛門のような盗賊が出現して、江戸から来た侍たちが大捕り物を繰り広げたら庶民の間で義賊像がふくらんでもおかしくない。役人や権力者を翻弄して逃げ来る怪盗に江戸庶民は拍手を送った。反権力のヒーローを求める心理が、盗賊を義賊にまつりあげてゆく。

事件から120年後、白浪狂言の名人河竹黙阿称作『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』(演目では『白浪五人男』)が庶民の芝居でもてはやされた。芝居中で大親分の役で登場する日本駄衛門のモデルが日本左衛門である。 せせらぎ長者が、義賊に襲われた被害者であるにもかかわらず、狙われたことで肩身の狭い思いをしたというのは、このような民衆の「義賊ひいき」からきたものだろう。 延享4年(1747)3月、日本左衛門は遠州見附で処刑され首は見附の三本松の仕置き場にさらされた。その首を愛人三好ゆきが盗んで葬ったといわれ、その墓は金谷町東町の宅円庵に今もある。

 

参考文献 『東海道小夜の中山』中部建設協会
  『平成八年度 磐田市史完結記念公開講座資料集全五回』磐田市教育委員会
  『静岡人物誌』深澤渉著 静岡新聞社
  『松竹歌舞伎座筋書 平成七年一月』歌舞伎座
*画像 『東海道小夜の中山』中部建設協会

   

日本左衛門という盗賊

 

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