You are here: TOPPAGE 歴史探訪案内 昔ばなし 第23回  牛石のアゴ付御朱印 [解説]常現寺と水井と逆川  

[解説-1]   
アゴ付御朱印のその後

高橋家に伝わる古文書

倉真の牛石

 倉真最北端に「松葉牛の下」という地名があります。この松葉と旧五和村庄司との境の山に大きな黒い石があり、あたかも牛が寝ているような形をしているので昔から「牛石」と呼ばれています。この山から見降ろす一帯が牛の下で、治郎右衛門の昔話が残されているところです。
 牛の下には高橋姓を名乗る家が五戸あり、その本家である高橋治郎右衛門の家に伝わる古文書に、この「アゴ付御朱印」の話が記されています。古文書ではこの御朱印の御絵箋を頂戴したとなっており、正確には御朱印に準じた大切な文書をいただいたということのようです。
 古文書には年号が無く、慶長とだけ記されていますから、安土桃山の後期あるいは江戸初期の話と思われます。山内一豊が久遠寺で家康を接待したのが慶長五年(1600)のこと。お茶一服に満足し土地を与えるというできごとは、家康が押しも押されぬ天下人であったことを物語っています。
 とにかく、一農民であった高橋家にとってはたいへんなことであったに違いありません。この御絵箋は大切に保管され、高橋を名乗る一族が「地の神様」の小祠を建てて、この御朱印を御神体として社名を「しんらんせつ」と呼び、御幣5本を刺したものを奉納して毎年10月19日にお祭りを行っています。

土地をめぐる争い

 牛の下一部落の生活を支える田畑山は、その後治郎右衛門が病で亡くなって残された女房や幼少の世継ぎでは年貢納めその他の世話ができないということで、松葉部落の固めをする村世話人に一切を頼んで年を経たということです。当時は諸制度も整備されておらず、土地台帳なども無かったため、御朱印で認められた田畑山の所有権が明確を欠くようになってきて、世話人と牛の下部落民との間に意見の違いが起こり、高橋の家ではこの争いを江戸幕府に申し出、土地の所有を明らかにしてもらうため、御絵箋を所持して江戸へ出向いたのでした。
 高橋家の者が江戸に向かう途中、道連れになった旅人がありました。この道連れの旅人とは江戸に出てからも宿を同じにし、泊まったその晩に高橋は御絵箋を包んだ風呂敷包みを棚の上にあげて風呂へ入りましたが、部屋に戻ってみると旅人は座敷きにおらず、棚の上にのせておいた風呂敷包みも無くなっていました。探しても見つからず、道連れの旅人に盗まれたとわかっても後の祭り。代々家に伝わる御絵箋を紛失しては故郷に帰るに帰れず、大名屋敷に奉公して八年を過ごしましたが名案も浮かばず故郷の松葉に帰りましたが取り付く島もなく、時は過ぎて明治の世となりました。
 明治の世となって地租改正があり、明治政府は地券を発行して所有権を明確にしました。その地券も高橋家には下らなかったので、明治7年9月に高橋左次平が明治政府に訴え出、結果は御朱印の件は認められなかったということです。そのとき、牛の下の部落民は憤まんの持っていく場がなく、牛石峠の牛石の首を打ち落として山の中に投げ入れたということですが、今では牛の首も元に戻ってセメントで付け合わされ昔の牛石の姿に戻っているそうです。

 

参考文献 『ふる里かけがわ第2集』掛川市教育委員会
 
「牛石の由来」松浦弥三郎著部分

 

昔ばなしのもくじ アゴ付御朱印 [解説-1]アゴ付御朱印のその後 [解説-2]倉真の土地問題と報徳社  

 

お気軽にご意見ご感想をお寄せください。

お茶街道文化会
主催:カワサキ機工株式会社