You are here: TOPPAGE 歴史探訪案内 昔ばなし 第24回椿の淵のうなぎ [解説-2]鰻昔話・椿の淵  

[解説-2]   
鰻昔話・椿の淵

鰻淵のお紅鰻

 鰻は水神と考えられていたことから、全国に鰻が登場する昔話がたくさんあります。お茶街道では、菊川の西北側、掛川市東山口地区の鰻淵と呼ばれる淵に「お紅鰻」という昔話が伝えられています。

お紅鰻

鰻淵は東山口村逆川流域にある。昔佐登姫と云ふ女が一人の老翁と此の地に住んでいた。姫はこの淵の鰻をとっては翁に供した。その味はたいへんよかった。食膳に上すこと余りにしばしばであったので、殺生を忌む翁が和歌を詠んで之を諷戒した。すると姫は悔いて此の淵に身を投げて死んでしまった。これから此の淵の鰻は皆口端に紅脂の色を帯びているという事である。

(『静岡県伝説昔話集』静岡県女子師範学校郷土史研究会編纂より)

鰻などの淡水魚を宗教的にとらえたのは日本が農耕社会になったころからともいわれ、かなり古来からこのような話が伝えられたと考えられます。この「お紅鰻」に出てくる姫は、都落ちしてこの地に移り住んだ平家の姫であるといいますが、この伝承が鎌倉時代頃の話なのか、後世になって姫の話に託して伝えられた殺生を禁じる戒めの話であるのか定かではありません。

鰻を食べない習慣

全国に伝わる伝説に登場する魚は、概して宗教的な背景を持つ場合が多いようです。かつて神に献上した習俗から、魚が神聖視されていたことがその理由でした。福島県には、毒を使って岩魚を捕獲していたところ岩魚の精が殺生を戒めに出たという伝説から今でも岩魚を捕らない村があります。このような魚が登場する昔話が各地にあるのは、農耕民の水神信仰が広まり、淡水魚を水の神と伝えるようになったからだといいます。「椿の淵のうなぎ」も農耕に根ざした水神信仰に発した伝承と思われますから、当時椿が谷や海老名の人々は鰻を食べることをひかえていたのでしょう。

椿の淵の今

菊川町西方の位置

 この「椿の淵のうなぎ」は『遠江古蹟図絵』(享和3・1803)に記されているお話です。記述には「往古椿の大木有り」とあり、『図絵』の著者である庄右衛門の時代にはすでに椿の木はなく、ただこの地を椿が谷と呼ぶことと、淵の由縁が伝えられているのみでした。城東郡西方村は現在の小笠郡菊川町西方、JR東海道線菊川駅の西方一帯です。江戸時代の西方村には、菊川の支流にあたる西方川が流れていました。今では椿が谷の地名は使われなくなり、川の流れも江戸期と変わって西方川という川はもうありません。現在は淵らしきものもなく、椿の淵がどこにあったのかわかりませんが「椿を倒したところに淵ができた」とありますから、おそらく川の流れに面した場所であっただろうと神谷氏は解説しています。

 

参考文献 『静岡県伝説昔話集』静岡県女子師範学校郷土史研究会編纂
  『遠江古蹟図絵』解説神谷昌志 明文堂出版社
  『ふるさとの伝説九』鳥獣・草木 ぎょうせい
 
部分「伝説と魚」大島広志著
 
『掛川のむかし話』掛川歴史教室

 

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