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『無間の鐘』に関連するお話と資料
1.蛭(ひる)になった荒石長者粟ヶ岳のふもとの、小鮒川(こふながわ)というところに、一人のお金持ちが住んでいました。
この人は、ひどく欲深い人で、意地の悪いことをしてお金をためていたので、 村の人たちは、「荒石長者」と呼んでいました。
荒石長者は、無理しても粟ヶ嶽にのぼり、大きな音を出そうと、勢いよくつきかけました。
すると足元がすべり、谷底へ落ちて、死んでしまいました。
そして、地獄におちた荒石長者は恐ろしい蛭になってしまいました。
これを見た住職は、 「こんな悪い鐘なら、無いほうがいい」 と、鐘を井戸に投げ込み、埋めてしまいました。
それから後、この井戸を、無間山観音寺の無間の字をとって 『無間の井戸』と呼ぶようになりました。2.喧嘩のはて
むかし、この粟ヶ嶽の近くに、川井成信(かわいせいしん)という殿様がいました。
そして、その近くには、大沢兵庫(おおさわひょうご)という武士が住んでいました。
ふたりは仲が悪く、何かといえばケンカばかりしていました。
ある日のこと、川井成信が、幕をはって山の上で花見の酒を呑んでいると、 来合わせた大沢兵庫が『何だろう』と、幕の中をのぞいて見ました。
川井成信は、大沢とわかると 「誰だ。のぞくのはきっと乞食だろう。魚の骨でも呉れてやれ。」 と言いましたので、大喧嘩になりました。
大沢兵庫は、 「おれが貧乏だから馬鹿にする。この無間の鐘をついて金持ちになってやるぞ」 と、無間の鐘をつこうとして、 ついに、山のお寺や松の木を焼いて、自分もまた、川井成信も焼け死んでしまいました。
それから後、この無間の鐘は、悪い鐘だと言われるようになりました。3.その他の資料
江戸時代の書物では、滝沢馬琴『諸国里人談』『東海道細見記』『煙霞綺談』などでこの話が紹介されており、『東海道名所図絵』には炎に囲まれた阿波ヶ嶽(粟ヶ岳)が描かれている。安藤広重も無間の鐘を描いており、広く世間に知られていた話であることがうかがえる。
*このお話は『遠州七ふしぎの話』御手洗清 著を参考にしています。
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