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椀貸伝説に関する考察
椀貸伝説についての諸説椀貸伝説は、中国地方(近江)から諸国に移り住んだ木地屋に関する伝説らしく、膳や椀を借りる話の筋はどれも大筋で同じものが、中国山地を中心に全国に分布している。淵、川、池、沼など水の底から借りるものと、塚、洞穴、岩、地蔵から借りるものとがある。
つまり、この伝説の淵、井戸、池といった「水」と、木地屋の特殊な技術で作られる椀、膳の材料である木を生む「山」がキーワードといえる。水があるところには昔から定住している人々の集落がある。里人と交流しなかった山に住む木地師たちも、水や食料を必要とし、里人たちも椀や杓子を必要としたことから無人交易が起こったと考えることができる。独特の信仰と暮らしを営む木地師によって身を守る策としてつくられた伝説か、あるいは里人が木地師との接触に際して抱いた、見知らぬ者に対する怖さ、警戒心と、その人たちの持つ轆轤(ろくろ)技術の必要性とが入り混じった伝説なのか。その根拠は定かでないが、この伝説を全国に運んだのが木地屋の徒であることは推測される。
しかし、斎田茂先は、「椀貸池 岡津の北に在り、相伝ふ、昔此の地に神あり、村中の民食器の椀を借りんとて、池に臨て約し帰り、再び至れば約せし程の椀池塘(ちとう、池の堤)にならべてありし故に、椀貸池と呼びしといふ、付会(ふかい、こじつけ)の怪談ならん、椀かしとは、西国(さいごく、西方の国)の方言に椀を洗滌することをカスと言、米を洗ふを米を淅(かす)と言と同じ」
と記しており、「カス=洗う」の方言を取り違えただけだと示している。また、淵、川、池、沼の椀貸伝説は、その貸し主が、竜神、河童、大蛇、乙姫などであることから、信仰に関係した話であるとする説や、多くの椀膳を必要とすることが、旧家の盛衰を伝える話であるなど諸説あり、その意味するところは確かではない。
椀貸池の場所と秋葉路掛川市の地図を見ると、掛川の西部に多くの池が点在している。池の多くは江戸時代から明治、大正にかけて構築された農業用水の貯水池だが、自然の池もある。この話の椀貸池(湾岸池)も自然池で、今も水をたたえている。
掛川市大池地内の国道は掛川バイパスが出来たことで大きく変わってしまっているため、昔の地理をたどるには少し苦労する。掛川市の中心街から国道1号線を西に進み、倉見川にかかるコンクリート橋を渡った西側が大池で、昔の大池村。この大池地先で国道1号線と分岐している現在の森往還を北西に進み、富部地形から西方の山に向かって進む。富部は掛川市の合併前の桜木村、江戸時代の佐野郡富部村である。天竜浜名湖鉄道遠江桜木駅前から西方に300メートルほど森往還を進むと進行方向に向かって左側に幅員3.6メートルほどの道が分岐している。分岐した道はすぐ踏切を渡り、道はゆるやかなカーブを描きながら勾配をもって丘陵の上にのびており標高35メートルの山の上に出る。丘陵は南北に細長く独立しており、中央部がくびれた形をしている。そのくびれた位置に池が出来ている。これが伝説の椀貸池である。山の頂きから見下ろすと全体がよくわかる。丘をのぼらず山すその道を北に入れば、池畔に出ることができる。国道1号線を西に進み大池地内をすぎると、安藤広重の『東海道五十三次』の版画に登場している橋を見ることができる。その広重の版画には、背後に秋葉山の鳥居も描かれている。この秋葉山の大鳥居は、江戸方面から遠州の秋葉山をめざしてきた人々に、ここからが秋葉山への参詣道であることを教えたもので、東海道から分岐したこの道は、森、三倉をぬけて周北の霊山秋葉山へと通じていた。関西や伊勢、尾張方面から秋葉山をめざした人々は、浜松宿田町の大鳥居をくぐって秋葉道を入り、二俣、光明をへて秋葉路に入った。西国との交流の路に近いことが、この地に椀貸伝説が残されていることに関わりがあるものと思われる。
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