昔、本郷の名主に小沢八太夫という情深い立派な人がおりました。八太夫の屋敷には一本の 大きな樫の木があり、この樫の木がたいへん気に入っていて八太夫は大事に育てましたので、
樫の木はぐんぐん枝葉を伸ばし、遠くの村の方からもよく見えたということです。 木がこの ように大きくなりすぎたので、屋敷は昼間でも半分しか陽がささず、人々は『日陰の館』と
呼んでおりました。
さて、この八太夫の屋敷に一人の下働きの男がおりました。毎日水を汲んだり、まきを割 ったり、庭を掃除したりする他に、この男にはもっと大事な仕事がありました。それは、夜
になると、広い屋敷内を火の元は大丈夫か、戸締まりを忘れた所はないか、と見てまわる仕 事でした。
ある雨の降る夜のことでした。男は、
「こんな夜は何となくいやなものだ。今夜は早いとこ切りあげよう。」
と、ひとりごとを言いながら、みの笠を着て見回りに出掛けました。
「火の用心、火の用心」
男は、いつものように屋敷を見回りました。そして灯籠(とうろう)のところまで来ると、
何となく灯りがボーッと明るくなっていました。おかしいな、と思いながら近づいてみると、 いつ誰が灯したのか、もう先に火が灯っているのです。不思議に思いながらも、見回りを続
けてその夜はいつもより少し早めに切り上げました。
さて、男は日々の忙しさに追われて、その夜のことは忘れていました。それから一ヶ月 ほどたったある日、朝のうち晴れていた空から日暮れ近くポツポツと雨が降り出しました。
男はいつものように、みの笠を着て屋敷を見回り、灯籠に火を灯そうとして見ると、また誰 が灯したとも知れない火が灯っていました。
次の朝、男は早速みんなに聞いてみました。ところが誰一人雨の夜わざわざ火を灯しに 出掛けた者はありません。ますます不思議に思った男は、今度こそ誰が火を灯すのか見つけてやろうと、雨の降る日を待ちかまえていました。
二週間ほどして、シトシト雨の降る夜、 男はいつもより少し早めに見回ることにして、誰が火を灯しているのか確かめようとしました。そして例の灯籠の所まで来ると、何やらボーッと人影らしいものが見えました。その影
は灯籠に火を灯して歩き出そうとしています。雨をすかしてよく見ると、なんと坊さまの姿をしたかわいらしい子どもです。
「この辺では見かけない子どもだが、はて誰だろう。」
男はそっとあとをつけてみることにしました。つけられているとも知らぬ小坊主は、それ から家の隅々を見て回り、大きな樫の木のところまで来ると、ふっと姿が見えなくなってし
まいました。木の陰にかくれたのだろうか、と思って男は木に近づいてみましたが、あたり には猫の子一匹おりません。男は背筋がゾーッとなりました。
翌朝、男はこの話をみんなにしました。この話はたちまち屋敷中に伝わり、まもなく近郷 近在に知れわたりました。それはきっと大事に育てられた樫の木が、小坊主に姿を変えて屋敷を守ってくれたのだろうということになりました。人々は誰言うともなく、これを『雨降り坊主』と呼んで、今まで以上に樫の木をだいじにしました。
それから後、八太夫の屋敷では、雨の夜の見回りはしないようになったということです。
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