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第4回-2 遠州七窯志戸呂焼(しどろやき)の歴史 榛原郡金谷町2000.01.31

志戸呂焼の盛衰

志戸呂焼は、初期の鉄釉、灰釉による天目茶碗の時代、江戸中期頃までの筒茶碗、徳利、香炉の時代、江戸中期から明治にかけての黒釉を施した壺、瓶、椀、皿の時代の三つに大きく分けられます。

窖窯(あながま)
平安時代、応仁の乱で需要を失った陶工が各地に離散した所謂「瀬戸離散」がありました。その離散先のひとつが金谷であり、志戸呂窯はそのときに復興したもとのいわれ、大永年間(1521〜1528・室町後期)頃に葉茶壷を焼いたのが始まりと伝えられます。また、天正年間(1573〜1592) 初期、美濃国久尻の陶工加庄右衛門景忠が、五郎右衛門と改め作陶したとの説もありますが、最近の三ツ沢窯発掘調査では大永年間よりも更に古い15世紀の開窯との説が有力です。

大窯(おおがま)
志戸呂焼に再び窯の火が点るのは16世紀後半のことで、大井川をはさんで対岸の二ヶ所に瀬戸・美濃系の大窯が築かれました。家康は天正16年(1588)5月14日、志戸呂窯に朱印状(商売免許にあたる)を授け、伝馬朱印状、13人扶持などを与えて窯を優遇し、志戸呂焼の名は全国に知られるようになりました。その後、志戸呂焼の茶壺は将軍家の代々の献上品となり、掛川藩は窯元を手厚く保護しました。

登窯(のぼりがま)
志戸呂焼がさらに盛んとなるのは17世紀に入ってからで、幕藩体制が確立されると駿府掛川城下を中心に志戸呂焼の需要が高まり、金谷に登窯が築かれ大量生産が行われました。享和元年(1801)には30数軒の窯元があったといいます。釉は灰釉と鉄釉を混ぜた独特の調となり、天目茶碗、茶入、花生などの茶器から徳利、皿、瓶などの日用品まで幅広くつくられました。 近年の関東における発掘調査で、志戸呂焼の灯明皿や由右衛門徳利(よしえもんとっくり)が数多く出土しており、江戸の市場に広く流通していたことがわかります。

志戸呂焼古窯跡
鎌倉時代に山茶碗(釉をかけない茶碗)をつくった窯跡が、窯屋・智生寺・沢水加・長者原、菊川にあったといいます。 志戸呂の古窯跡は、鎌倉時代、室町時代、桃山時代とそれぞれに推定されるものがかなりあり、鎌倉時代の窯跡からは瀬戸地方で行基焼とか山茶碗などと呼ばれる、荒土を焼き締めただけの平たい椀や小皿の類の破片が出土しています。これらの底は、糸きりした上により土を輪にして付けた「付け高台」で、籾がらを敷いた上に載せたので、高台に籾のついた跡が残っています。この頃の志戸呂焼は、江戸時代のものとは全く異なり、むしろ鎌倉・室町期の古瀬戸によく似ています。
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*参考文献 『公報かなや』金谷町役場
  『東海道小夜の中山』中部建設協会
  『掛川誌稿』

 

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