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名物好物

第4回 遠州七窯志戸呂焼(しどろやき) 榛原郡金谷町2000.01.31

志戸呂焼

黄色がかった地に飴色の釉がかかった渋みのある陶器。遠州好みとして知られる志戸呂焼は金谷町の伝統工芸品として古くから愛されてきました。
その歴史は古く500年前にさかのぼり、一時は衰退していた窯を、慶長年間(1596〜1615)に徳川家康が瀬戸の陶工加藤九郎右衛門景延を招いて再興したといわれ、現在でも5人の陶工がその流れをくみ志戸呂焼の伝統を伝えています。

志戸呂焼の特徴
現在、志戸呂焼と呼ばれるものは江戸中期以降の作がほとんどで、瀬戸風の黒褐色、褐色もしくは黒柚の作が多く、裏に「祖母懐」とか「祖母懐加藤四郎」または「姥懐」の刻銘があります。 のちに享保年間(1716〜1736)から「志戸呂」の銘をうった作品が生産されました。『掛川誌稿(文化二・1805年)』には、「祖母懐茶壺を以て最も名物とす。陶家旧十三軒、その家現存するもの今九軒云々」とあります。(刻印のあるものは後代の作で、黒ねずみに黄の胡麻釉で厚手で刻印のないものが古作。)
もうひとつ、志戸呂焼の特徴は「七度焼」。七度焼とは景延が七度も焼いた名器から出たもので、この壺に静かに耳を近づけると、壺が鳴いているような音が伝わってくるといわれます。
遠州七窯
志戸呂 しどろ 静岡
膳所 ぜぜ 滋賀
上野 あがの 福岡
高取 たかとり 福岡
朝日 あさひ 京都
赤膚 あかはだ 奈良
古曽部 こそべ 大阪
(古曽部を伊賀とする説もあり)
遠州七窯のひとつ
志戸呂で遠州の好みの茶器を製したのは寛永年間(1624〜1644)といわれます。遠州七窯とは、 千利休、古田織部の系譜をくみながら独自の茶の美を築いた小堀遠州が、作陶の指導にあたったり、自らの意匠により茶道具を制作させた窯をいい、その産品は粋人から珍重されました。型・色・陶土質まで細やかな指導がされたといいます。その遠州好みは、茶道具全般の多岐にわたって伝えられ、安政年(1855)田内梅軒が著わした『陶器考』に「遠江国志戸呂(とおとうみしどろ)」とあり、近江国膳所、豊前国上野、筑前国高取、山城国朝日、摂津国古曽部、大和国赤膚と並び遠州好七窯の一つとして記録されています。
志戸呂焼茶壺


志戸呂焼と茶

志戸呂焼は古来「質粗にして土色淡赤、釉色は濁黄に黒色を帯び・・・陶質堅実なり」(工芸志科)というように、陶土には鉄分が多く、土質が硬く、赤味や黄味を帯びています。その堅焼きの特徴から、湿気を嫌う茶壺に最適といわれ、献上茶の茶壺に使われました。その落ち着いた味わい深い風情から、今でも主として抹茶や煎茶の茶器の作品がつくられています。

 

 

■彦次窯 鈴木成己
榛原郡金谷町横岡914
TEL:0547-45-4540

■鳳悦窯 白幡鳳悦
榛原郡金谷町番生寺60
TEL 0547-45-2874
■遊窯 鈴木良法
榛原郡金谷町横岡1184-9
TEL:0547-45-3814
■遠州志戸呂焼 本田昌子
榛原郡金谷町横岡579-3
TEL:0547-45-3858
■天真窯 曽根哲男
榛原郡金谷町島614-5
TEL:0547-46-0222

現代の志戸呂焼
『掛川誌稿』横岡村の項に質呂陶器とあり、当時の陶家が九軒あったことを伝え「加藤虫衛門、加藤平七、永井傳右衛門、永井傳八、鈴木金右衛門、鈴木喜右衛門、鈴木新五兵衛、永井清兵衛、鈴木源右衛門、此内加藤氏は名人藤四郎の子孫と云」 と名を記しています。現在、この鈴木氏の後裔の陶工を含む5名の陶工が窯を守り、志戸呂焼の伝統を伝えています。

→志戸呂焼の歴史へ


*参考文献 『東海道小夜の中山』中部建設協会
  『掛川誌稿』
  『公報かなや』金谷町役場
*画像提供 金谷町役場

 

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