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天然寺の交差点を東北へ200mほど進んで笠屋橋を渡り、住宅街の細い道をしばらく歩くと真如寺があります。真如寺の墓地のほぼ中央にあるお堂の中にある五輪塔が松平定吉の墓で、没後十九年にあたる文和七年(1621)7月11日に建てたものといわれます。 曹洞宗日輪山真如寺は、戦国時代の天正18(1590)年掛川城主山内一豊公が在川謙昨(ざいせんけんさ)大和尚を駿府長源院より招じて開創した名刹で、在川謙昨大和尚は山内一豊の伯父にあたる人物です。 山内一豊が土佐に国替えとなった後は家康の異父弟松平定勝公が掛川城主となります。そして慶長八年に定勝の嫡男定吉が切腹という事件が起こり、非運の定吉は幼少の頃読み書きを習ったというこの真如寺に葬られました。真如寺には定勝が描かせたという定吉の肖像画が残されています。
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真如寺からさらに国道一号線方面へ進んだ掛川東高校の北側に正願寺があります。 掛川城主朝比奈備中守が法華堂を建立し、身延山十三世宝聚院日伝上人により開山された由緒あるお寺です。 |
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現在の北門交差点近く、掛川城の北東に龍華院があります。小高い丘の頂上に開けたこの地はかつては城内にあたり、戦国時代には掛川古城の本曲輪がありました。 龍華院大猷院霊屋(りゅうげいんたいゆういんおたまや)は、明暦二年(1656)掛川藩主北條氏重が幕府に願い出て、徳川三代将軍家光(諡号(しごう)大猷院)の霊牌を祀るために建てたものです。嗣子の無い氏重が断絶の打開策として建立したといわれますが、万治元年(1658)十月氏重の死去に伴い家は断絶、領地は没収となりました。 |
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