You are here: TOPPAGE古今旅集お茶街道の旅 間の宿菊川>矢の根・四郡橋  
タイトル  

[矢の根鍛冶才兵衛屋敷]金谷町菊川

さんぽ茶屋の斜向かいに、矢の根鍛冶が大きく描かれたお宅あります。ここは、その昔矢の根鍛冶をしていた才兵衛の家であったとのことです。才兵衛は古くからの矢の根鍛冶でしたが、『掛川誌稿』によると貞享以後断絶したらしく、その後矢の根鍛冶の職は別家の清次郎へと引き継がれたようです。

矢の根とは弓矢の根、すなわち矢尻のことで、菊川の里に硬くて鋭利な矢尻をつくる者がいることが、書物などによって知らしめられ当地の名物となっていました。矢の根鍛冶清次郎は、参勤交代で街道を通る大名行列に献上しては、その優秀さを誇っていたといいます。その後、泰平の世となって矢の根の需要がなくなり、五條清次郎は土地を離れましたが、代々伝えられたと思われる矢の根鍛冶「秘伝書」は、今も菊川の旧家に大切に所蔵されており、この地には「鍛冶屋敷」という往時を偲ぶ地名が伝えられています。

 

矢の根鍛冶五条清次郎

慶長五(1600)年の関ヶ原の合戦で、江戸城から西へ向かう徳川家康は、途中の菊川で五條鍛冶に矢の根を仰せ付け、合戦で勝利をおさめたので「吉例の矢の根」と称して参勤交代の諸大名にお目見えを許されたと『掛川誌稿』にあります。
また、『金谷町誌稿』に収録されている享和三(1803)年「矢根鍛冶由緒書」には、伝説「鵺退治」で怪鳥を退治した矢の根は五條清次郎の先祖丹次政則が打ったものであると書かれており、同様に『掛川誌稿』には、「家伝に、元祖は京都五條の鍛冶にして、此の村に下り、数世住して、小夜中山に怪鳥を射たりし矢の根は、先祖丹次政則が時打ちたりと云う」とあります。いずれも鵺退治と刃の雉子の伝説を混合してつくられたものと思われますが、矢の根鍛冶がその腕を誇るだけの隆盛を極めた時期があったのでしょう

 

矢の根鍛冶の絵
矢の根鍛冶の絵
 

[四郡橋(よごおりばし・横折れ橋]金谷町小夜鹿

300mほど続く菊川の里を抜けて、街道を横切る菊川の支流に架かる橋は「四郡橋」と呼ばれ、菊川の里の西の入口です。「四郡」は「ヨゴオリ」と読み、四つの郡にまたがる長い山があるからとも、東海道がこの川を渡って直角に折れるから「横折れ」が訛ってついた名であるとも言われます。
東海道は、四郡橋を渡って左(南)に曲がって町道菊川神谷城線を横断し、石段にはじまる青木坂(箭置坂)へと続いています。

 

関連リンク
地名のお話第3回『峠と境−沓掛・三郡山・四郡橋』

 

四郡橋
四郡橋(よごおりばし)

←もどるmark青木坂へ→

お気軽にご意見ご感想をお寄せください。

お茶街道文化会
主催:カワサキ機工株式会社