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地名のお話

第3回『峠と境−沓掛・三郡山・四郡橋』-1

2.三郡山と四郡橋

 郡は、古代の国司支配の表示の仕方で、郡の領域は、土着の豪族の勢力範囲をもとに決められていました。そして、その下に50戸単位の里がおかれていました。この郡が交わる土地に、その領域の境を現す地名が残されています。

 もうひとつ、同じような境を示す地名として小夜の中山峠の久遠寺の南側に三郡山(さんこおりやま)があります。今では菊川町と金谷町と掛川市の境となっている山ですが、合併以前は、榛原郡と城東(きとう)郡、佐野(さや)郡の三つの郡の境でした。このため、サンコオリ山と呼ばれたようです。
  古代峠が国の境に位置したところが多くあり、古代の旅人は、そのような峠を越すときには、峠の神にささげ物をして無事に国へ戻れるよう祈ったといいます。そして、三つの国が交わる交通路上の峠は、さらにめでたいところと考えられていて、人々はそこを「三国峠」などと呼びました。

 国道1号線バイパスを西へ向かい、牧之原第3トンネルをぬけたあたりでバイパスを降りて南側にある旧道を菊川方面に300mほど行くと四郡橋があります。

よこおり橋

菊川ではなく、その支流の小さな川を渡すこの橋も、位置的に里と里との境界を意味するものと思われ、ヨコオリ橋と呼ばれています。東海道の宿駅には入っていませんが、間の宿(あいのしゅく)と呼ばれた菊川宿の東のはずれにあり、西へ向かう人々は、この橋を渡るとすぐに見える青木坂(箭置坂)という急坂を上って小夜の中山峠を越えていきました。
  小夜の中山のことを「長山」と書いた書物『宗長手記』(連歌師宗長著)がありますが、林春斎(しゅんさい・鵞峯がほう)は、その著書『癸未(きび)紀行』の中で、「遠州四郡臥、佐夜一山長」と書いており、中山は四郡に臥(ふ)している長い山にあるから、そう名付けられたと言っている。この四郡というのがどこを示すか、については、三つは先の三郡山と同じ榛原郡、城東郡、佐野郡であるが、あとひとつがわかりません。『東海道名所図絵』では、榛原郡、佐野郡、城飼郡(城東郡の前身)、それに山名郡だと記していますが、山名郡ではなく山香郡だという説もあります。 また、これは郡を示しているのではなく、道が横に折れていることから「横折れ橋」のことだろうという説もあります。あるいは、『古今和歌集』に
「横ほり臥せるさやの中山」という有名な歌があるから、横おり橋、横たわっている橋だろうという説もあります。
 こうして見ると、四郡橋は、菊川の里の中を通ってきた東海道が、この川を渡るために直角に曲がって中山峠を上っていったから、横折れ橋がなまってヨコオリ橋になったというのが妥当だとも思えてきます。

 

参考文献 『東海道小夜の中山』 中部建設協会
  『地名の由来を知る事典』武光誠著 東京堂出版

峠の旅のなごり「沓掛」

 

地名のもくじ 第1回 第2回 第3回『峠と境−沓掛・三郡山・四郡橋』 第4回 第5回 第6回  

 

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