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[小夜鹿の一里塚]掛川市小夜鹿字小夜鹿

公園を過ぎると、尾根づたいの道は下り坂となります。
公園から250mほど進むと三差路になっていて、交差点を渡った左手(北側)角に「小夜鹿一里塚碑」があります。ここは江戸から五十六里目の地で、昔は道をはさんで両側に盛り土の塚がありました。
江戸時代には南側には榎、北側に松が植えられてましたが、明治になって切られてしまいました。現在は、盛土をしてまわりを石で補強整備されており、新しい松の木が植えられています。

小夜鹿の一里塚
小夜鹿の一里塚

[鎧塚(ヨロイヅカ)]掛川市小夜鹿字小夜鹿

一里塚からさらに250mほど先の左手(北側)の起伏したところに「鎧塚」があります。 建武二年八月、北條時行が鎌倉幕府を再建しようと兵を挙げたとき(中先代の乱)、遠江国の守護として三河から来たばかりの今川範国が時行の家臣名越太郎邦時を打ち取りました。このとき、範国自身も戦死してしましたが、名越氏の鎧を埋めて供養した所と伝えられています。
後世になって地元の人が掘ってみたところ、鎧は出てきませんでしたが、鎧塚云々と書かれた丸石が発見されています。

 

鎧塚は弔いの地か、武勇誇示の目的か

しかし、『掛川誌稿』では鎧塚は名越太郎を弔った場所ではなく、今川頼国が本州での功績を知らしめるために建立したものだと記しています。

『掛川誌稿』より
駅路南側林中ニアリ、来由傅ラス、按ニ建武二年八月、北條高時ノ餘類、名越太郎邦時、兵ヲ起シテ京ニ攻上ントシテ、小夜ノ中山ニ於テ今川式部大輔頼国ニ討ル、又享徳五年、今川義忠ノ一族、堀越陸奥守貞延、
小夜ノ山口ニ於テ横地勝田ノ為ニ討レ、共ニ戦死スルモノ数輩アリ、サレトモ鎧塚ハ名越太郎カ死骸ヲ埋ミタル所ナラン、今川頼国、名越邦時ヲ討テ、初テ本州ニ於テ大ニ功ヲ立タレハ、塚ヲ築テ其標トセシモノナルヘシ

 

鎧塚の入口
鎧塚の入口
鎧塚
鎧塚

[国道一号線への別れ道]掛川市小夜鹿字小夜鹿

鎧塚から右手に曲がる道は、茶畑の間を抜けて国道一号線に通じています。(次ページの別れ道と途中で合流しています。)

国道への別れ道
国道一号線への別れ道

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