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[久延寺]掛川市小夜鹿字新茶屋
青木坂を上りきってなだらかな頂上に着くと、右手に佐夜山久延寺(きゅうえんじ・真言宗)があります。 創立開基は奈良時代の行基だと伝えられますが詳細は不明です。久延寺は、夜泣き石伝説で音八を育てた寺として登場し「見事仇討ちを成し遂げたのは本尊の観音様のお陰」と、子育て観音の名で旅人の信仰を集め、峠の名刹として知られるようになりました。
建物は近世に火災にあっているため、江戸後期から幕末のもののようです。寺には「宝物之図」の版木が残っており、音八が仇討ちに用いた太刀、無間の鐘の破片、刃の雉子の牙、子孕み石、安産玉、弘法大師が御簾に書いた南無阿弥陀仏の名号など、伝説の山寺らしい記録があり、街道が賑やかだった頃の様子が伺い知れます。
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久延寺山門
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[茶亭跡]久延寺境内
慶長五(1600)年、関ヶ原の戦いに向かう家康を山内一豊が煎茶を接待しました。久延寺内にある御茶亭跡は、その時建てた茶亭のあった場所です。
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家康と久延寺
久延寺は、山内一豊が1600年に家康に煎茶を接待した場所として有名です。家康は諏訪原城を攻める際に久延寺を本陣としたこともあり、やがて遠州を平定した後も、この寺をしばしば訪れて茶をたてて過ごしています。そうした家康との繋がりから、久延寺は御朱印の領地をもらい、諸役免除などの優遇を受けています。
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茶亭跡
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[御手植えの五葉松]久延寺境内
山内一豊の接待のお礼として家康が五葉の松を植えたと伝えられています。かつては御殿(庫裏)の屋根よりも高く立派なものでしたが、枯れてしまって現在の松は二代目です。
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御手植えの五葉松
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[昭和の夜泣き石]久延寺境内
本堂の東側には、伝説の夜泣き石が奉られています。久延寺境内にある夜泣き石は、昭和三十年代に峠の人たちが石の段(夜泣き石があったところ)で見つけて、寺へ運んできたものだそうです。浮世絵に描かれた夜泣き石は、バイパス沿いの小泉屋裏手に祀られています。
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昭和の夜泣き石
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[接待茶亭跡の碑]久延寺境内
山門をくぐって西側、手水舎の裏手に接待茶亭跡の碑があります。これは 松平土佐守が、家康を接待した山内一豊の史実を後世に伝えるために建立したものです。石碑には「慶長五年、関ヶ原之役、山内対馬守一豊、為東照宮神君、作亭於遠江佐野郡中山、以進飯、迄干今人存其遺跡而護之、因標之伝。天明九年歳次己酉春正月」とあります。
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接待茶亭跡の碑
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