You are here: TOPPAGE 歴史探訪案内 人物クローズアップTOP 第2回  

人物クローズアップ

第2回 十辺舎一九   (98/09/16)

 東海道というと誰もが思い浮かべるのは、「東海道中膝栗毛」に出てくる弥次さん、喜多さん。東海道の名所紹介をヒョウキンな二人の道中に仕立てたこの滑稽本は、当時の娯楽小説として爆発的なベストセラーとなり、江戸中の風呂屋や床屋は一九の話題でもちきりだったといいます。ところが、失敗しても明るい朗らかな弥次さん喜多さんを、洒落と風刺の利いた軽妙な筆で描いた十返舎一九は、なかなかの気むずかし屋さんだったとか。


東海道中膝栗毛

  滑稽本というのは宝暦(1751〜1763)以後江戸に発生した新しい小説で、滑稽の中に風刺や教化を盛り込んだ本として書かれていましたが、一九が執筆した『東海道中膝栗毛』は、人物の会話を中心として描いていて当時としては新趣向といえる代物で、あまりに突飛なため版元は出版をためらったといいます。ところが、これを出版してみると大当たり(最初は『浮世道中膝栗毛』と題して出版)。江戸から箱根までの初編のみで完結するつもりだったのが、二編では箱根から岡部まで、三編は岡部から荒井(新居)までと書き継がれ、八編の大阪見物まで、東海道を8年がかりで完結しました。さらに『続膝栗毛』では、金毘羅、宮島の参詣を終え、木曽街道を経て弥次さん喜多さんはやっと江戸に帰ってくるという、全12編20年がかりの執筆でした。

 『東海道中膝栗毛』が大当たりした原因は、まずその文学ぶらない大衆性にあるといえます。永年続いた大平の世の中で、実力も経済力もない武士階級に対する反発を、無邪気で飾り気のない弥次喜多という町人を主人公に、わかりやすく描く語り口。そしてストーリーは、道中や宿場で起こるあらゆる人々との交流から想像されるアクシデントが写実的に軽快な調子で展開していき、遊廓、宿場、名物、身分に応じた言語などを使った巧みな描写。弥次喜多の常識をはずれた洒落と与太の連発、洒落や失敗がかもしだす罪のないカラッとした笑い、各地の風俗が方言をまじえながら端はしに織り込まれた粋なユーモアが、当時の江戸っ子をはじめ庶民の心をとらえたのでしょう。



年俸12両のサラリーマン

 十返舎一九は、駿河国寸駿府町奉行の同心の子として生まれ、本名を重田貞一といい、通称は与七。父親は奉行所の書記をしていました。大人になって父のあとを継ぎ奉行所に勤め、駿府町奉行小田切土佐守に従って大阪に転勤しました。大阪では、お上から食禄をいただいて芸道修行の生活でしたが、大阪に来た目的でもあった年来の作家志望を満たすべく、近松門左衛門の門をたたきます。役人を続けながら、近松の門下で並木千柳、若竹笛窮らとの合作で浄瑠璃本を近松与七の名で書きあげました。このころ十返舎の号を香道の「黄熟香の十返し」に因んでつけ、武士の片手間ではダメだと考えて年俸12両の役人生活に見切りをつけます。
  武士をやめたあと、大阪で義太夫語りの家に寄宿したり、材木商家に婿入りして離縁になったりしていますが、後に江戸に出て、蔦屋という地本屋の食客となって多くの黄表紙や洒落本を発表し、貧乏ながらも作家を業とするようになりました。そして、たびたびの東海道の往復で資料を蓄積して書きあげた『膝栗毛』の大ヒットで、洒落本作家の地位を確立します。

気むづかしい一九

 一九は、そのユーモラスな作品とはおおよそ対照的な案外の気むづかしく偏屈な性格で、到底作品に見るような軽快な男ではなかったようです。あるとき、膝栗毛の熱心なファンの某資産家が、この滑稽な一九と旅ができたならさぞ面白かろうと、旅費雑用いっさい負担の条件で頼みこみ、念願がかなって一九とともに旅をしたという人の話。そのときの一九は、その某氏が弥次喜多から想像した人物とは正反対で、むっつりとして口をきかず、しごくあっさりしていて宿に着けばさっそく机に向かって几帳面な日記をつけるという始末。なんにも面白くないので退屈して途中で逃げ帰ったといいます。一九はひとり旅を好んだといいますから、某氏が逃げ帰ったのは、ねらいどおりだったのかもしれません。

変わり者

 一九は、一時期は相当な暮らしをしていたようですが、20年にわたって人気作家であったにもかかわらず、晩年は酒におぼれて借家住まいの貧乏世帯でした。その貧乏にまつわる一九の奇行の数々が伝えられています。
 ある年の新春、年賀に来た客を無理矢理に入浴させ、その間にその客の着物はじめ腰のものまですべてを拝借して、近所に新年の挨拶をすませたということがありました。
 また、家財道具を質にいれては飲んでしまうので、家の中には何一つなくなってしまったときのこと。殺風景な家の壁に紙を張り、タンスや床の間、違い棚、掛け軸置き物などを描いて、正月の鏡もちまで絵にかいた餅、まるで芝居のような光景の中に平然と居たという、滑稽を地でいくような愛すべき一面も見られます。 一九のこのような奇行は、師と尊敬した太田蜀山人の影響ともいわれます。

死んでも洒落で

 江戸文学に数々の功績をのこし、十返舎一九は天保2年(1831)8月6日67歳で江戸長谷川町の裏長屋で病死しました。一九は、自分の死を予期していて、前日、頭陀袋へ線香花火をいっぱい詰めておいたので、火葬場で弔いの人々を驚かせました。

 辞世の句には

この世をば どりゃおいとまに せん香の    
              煙りと共に 灰左様なら

 

などと詠んで、みずから粋で陽気な最期を演出しました。なんとも洒落た一生ではありませんか。

 

*参考文献 『静岡県名人奇人伝』 白鳥金次郎著 静岡県名人奇人伝刊行会
  『ふるさと百話 10』 静岡新聞社発行

 

人物クローズアップTOP 第2回『十辺舎一九』 第4回 第6回 第8回 第10回 第12回  

 

お気軽にご意見ご感想をお寄せください。

お茶街道文化会
主催:カワサキ機工株式会社