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人物クローズアップ第12回[東海道]
中山新道開通と御林開拓『杉本権蔵すぎもとごんぞう
文政十二年〜明治四十二年
(1829−1909)
2000/05/15

杉本権蔵

明治維新を迎えて日本の政治が激変し、徳川の封建制度の終焉によって人々の暮らしや生業は大きな変革を迎えました。当時の人にとって、この目に見えない状況、将来への期待と不安は計り知れないものだったことでしょう。
この明治時代をたくましく生きた杉本権蔵は、御林の茶園開墾と、日本最初の民営優良道路中山新道開設という、2つの大事業を成し遂げた人物です。

生い立ちと人柄
杉本権蔵は、金谷宿に生まれ、金谷の旧家桜井家で育ちました。幼いころは貧しい身の上で、13〜14歳頃には川根の家山に魚の行商などに出掛けたといいます。
後に、五和村奥の大代山官林の伐採許可を得て、一躍政府に取り入ることができ、江戸を往復するようになりました。この縁で明治になってから御林開墾に任じられたものだろうと、孫の良氏は述べています。また、権蔵の人柄について、佐夜郡長在任中に御林開墾地を巡視した岡田淡山氏が、著書『郡中小孝節録』で次のように述べています。「…権蔵は金谷宿の人也。性頗る仁侠、維新の際大井川渡渉を廃して渡船の挙あるや、河越人足為に生活を失せんとするを恐れ、将に非挙に及ばんとす。権蔵奮て曰く、汝等誤る勿れ、吾必ず汝等の為に哀願することあらんとす、吾が命苟も存す、決して汝等をして飢渇せしむる無けんと、則ち自ら衆に代て東京に直訴す。…」この文章から、入植を一大決心した権蔵の積極果 敢な素質がうかがわれます。 

川越人足救済役として御林開墾

明治維新で激変する時代の中で、徳川方士族による牧ノ原開墾仲田源蔵をリーダーとする川越人足の入植と並んで、権蔵も明治3(1870)年、40歳で川越人足75名を引き連れ、初倉村の大塚新平、赤堀啓三両氏と協力して茶園開墾を世話する任務を受けました。この開墾事業は佐夜郡管下のもとに行われ、日坂宿の東北「御林」375町歩(約372ha)の払下げを受けることが決まり、750両の交付を受けています。
しかし、大井川の川越しという荒仕事に従事する者たちを大人数引き連れての入植は、一介の町民であった権蔵にとって容易なことではありませんでした。 権蔵たちは、東山境の字大平に家屋を建てて「御林跡開墾会所」と呼び、その南方の林に川越連中のための合宿舎を建てて入植の準備をしていました。ところが、開墾着手直前になって、開墾事業の困難さと成功を危ぶみ躊躇する人足が続出。権蔵らは、日坂や金谷の他業へ転じる者たちには、しかたなくこれを認め、金十両を与えて送りだしました。そのため、入植開墾は世話人自ら行うことに決まり、3人の世話人が一家をあげて御林へ移住し、明治3年より開墾に着手します。
その後、杉本権蔵、大塚新平らは数年の間に1万円の資金を投じて田八反歩、畑十四町二反歩を開墾し、うち半分は権蔵の所有する土地となりました。こうして、川越人足の救済の目的は果 たせませんでしたが、その後付近の農民も入植して開墾に加わるようになり、牧ノ原開墾に大きな功績を残しています。

中山新道の着想

急速に近代化がすすむ明治時代に入っても、金谷・日坂間を行き来するには小夜の中山峠を越えるほかありませんでした。当時の明治政府は財政難でしたから、道路整備や治水事業にまで手がまわらず、明治4(1871)年、各種事業を民間に委託するため「太政官布告」を発令しました。それは、険路を開き、橋梁を架けるなど、諸般 運輸の便利を興した者は、導銭、橋銭などの徴収を許可する」というもので、個人の資力でつくった場合には、通 行料を取ってもよいというものでした。入植して御林を開墾していた権蔵らにとって、荷車の通 れる道をつくることは急務であり、なんとか峠道を改修して通行の便をはかりたいと考えていました。権蔵は、この太政官布告にもとづいて明治7年に中山新道を計画しましたが、資金不足のために実現しませんでした。
また、新道の開通にあたっては、両駅を結ぶのにどこを通って道とするかで関係部落の賛成や反対があり、権蔵は一部反対部落の説得に骨を折ったと伝えられています。そのためか、権蔵は、小夜の中山の主「水申」が夢枕に立ち、『中山御林を貫通 して日坂金谷間に新道開通の儀(中略)至極結構の儀とは存じますが、唯私の棲家が無くなるので困却、御配慮いただきたい』と三夜にわたって出現したため、村人数十人を伴って山霊水申を上流へと送った、と語っています。

中山新道開通

 
明治13年5月の料金表

ようやく明治11(1878)年、静岡の富豪伏見忠七らの資金的な協力を得て、県へ出願。翌明治12年8月4日付で内務卿伊藤博文より太政大臣三条実美あてに「中山新道開鑿(かいさく)之儀付伺」が出されました。それは、金谷と日坂の間の小夜の中山峠は従来険峻にして、通 行人ははなはだ難渋しているが、このたび有志の者から新道の計画願が出された。その内容は、工事費のうち7千円を国より借用し、31年間通 行料を取って、その返済に充てたいという趣旨であるが、出資者たちの出資金を償却することだけを考えれば12年以内で償却可能なので、国から7千円を出資したい―というものでした。
ことは順調に進み、9月4日に工事許可が下り、10月15日には助成金7千円をもらって工事に着手しました。新道工事の収支計画は、工事費総額3万2千100円40銭、7千円を国から助成を受け、残り2万5千100円40銭を発起人たちの出資で賄うというもので、道銭1年間の純益見込を1,845円19銭とし、26年目に出資金全額を償却できるという計画でした。

道路工事といっても当時は人力で、ツルハシや鍬、モッコを使って土砂を運ぶ作業で、人夫延べ数万人を要する難工事でした。新道の長さは6.66km。ルートは、金谷駅南側にある長光寺の西、坂町から始まり、旧東海道と分かれて金谷隧道(JRのトンネル)の上を横切り、百楽園の前を上って諏訪原城の東側を北に行き、城の北端で牧ノ原を横断し、牧ノ原斜面 を西に下り、大鹿の集落へ入ります。菊川上流を渡って、不動の滝の上で菊川と逆川の分水嶺、今の小夜の中山トンネルの上を切り通 しにして峠を越え、「七曲がり」といわれる曲がりくねった逆川に沿って下り、常現寺の北側より日坂本町に出ました。
こうして、明治13(1880)年5月30日中山新道開通式を行いました。このあたりでは初めて大アーチに提灯をちりばめた、華々しい催しだったそうです。 道銭の徴収は、初めは金谷側と日坂側の二ヶ所にありましたが、明治14年に菊川橋西の仲田宅一ヶ所としました。この当時の料金は右のとおりです。

東海道本線開通の影響

 

晩年の権蔵

開通した中山新道は、陸軍の演習を行う軍人や牛馬による貨物輸送、秋葉山や伊勢道中への参詣者、外国人の旅行などで、年々利用者が増え、多い日には1日に荷車300台、旅客千人もあったそうです。 ところが、明治22(1889)年4月に、国鉄東海道本線新橋・神戸間の全線が開通したとたん、中山新道を通 る人がすっかり減ってしまいました。この時はまだ、出資金の残額が1万6千円余りある状態です。維持に窮したことから、権蔵の長男杉本伊太郎と伏見忠右衛門の連名で県へ嘆願を提出しました。「公のためにつくった道だから、中山新道を県に移管して、その際未償却金の代償として金谷から日坂までの旧東海道の道路敷と土居敷に属する地所や立木を払下げてもらいたい」と請願したのです。また、このころ、天下の公道で通 行料を取るとは、汽車にも乗れない窮民を苦しめる悪法だと言う人が多くなり、地域のために努力した事業がいつしか時代の流れに取り残された形となっていました。
しかし、この請願に対して明治35年に県から未償却補償として支払われたのは千円だけでした。そして、払下げを請願した旧東海道は、明治37(1904)年に里道に編入され、中山新道も明治38(1905)年、国道となったのです。このとき新道の経営を長男伊太郎に譲っていたとはいえ、権蔵の気持ちは如何であったことでしょう。
この年、日本は日露戦争に沸き立っている時でした。

それから4年後の明治42(1909)年、中山新道をつくることに心血を注いだ杉本権蔵は、その開拓精神に満ちた生涯を閉じました。 権蔵の生涯について、孫の良氏は、著書『小夜の中山御林百年』の中で、権蔵は号を「起利(ゆきとし)」利益を起こすとしており、その利益とは国利国益のことであろうと、その無欲に社会貢献した人生を辿られています。

 

*参考文献 『小夜の中山御林百年』 杉本良著
  『東海道小夜の中山』 中部建設協会発行
  『牧ノ原開拓史考』 大石貞男著/静岡県茶業会議所発行
  『静岡県人物事典』 静岡新聞社
*画像提供 『東海道小夜の中山』 中部建設協会発行
  『小夜の中山御林百年』 杉本良著
 
*画像及び文書の無断転載はお断りします。
 

 

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